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京都の不思議スポット -六波羅界隈の散策- [パワースポット]

午後からは、嵐電・京都市地下鉄フリー切符を使い、
太秦天神川から 地下鉄東西線で東山駅に移動です。

白川沿いに、雰囲気のある小径を 知恩院・円山公園方面に進みます。

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六道珍王寺.jpg

空海の師 慶俊が開基といわれる 臨済宗建仁寺派です。
俗に〝六道さん〟で知られる寺です。

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現世で消滅すると、次は
地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天人道 の六世界の何れかに誕生する―
人は人道として存在しており、死ねば 六道輪廻と云って 
また 〔六道〕を経巡るという思想があります。

この寺で、 六道まいりの期間だけ御開帳される六観音は、
六世界それぞれにある者を導くといわれます。

昔は、六道珍皇寺から西福寺付近が 
平安時代の鳥辺野の葬場の入り口にあったことから、
この辺りが、現世と冥界の接点、つまり「六道の辻」と考えられ、
寺宝の梵鐘の「迎え鐘」によって精霊がこの世に蘇ってくると
信じられていました。

西福寺
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迎え鐘
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この迎え鐘は、一般的な梵鐘ではなく、下の写真の建物の中に封印されています。
鐘は、「押す」のではなく 紐を「引く」ことにより音が出ます。
一説に、梵鐘の下は地中深く 地獄まで 続いている、と云われます。

本堂には、重文の本尊・薬師如来坐像、並びに他
地獄絵等が安置されております。

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本堂裏の井戸は、平安期の貴族で文人であった小野篁(おののたかむら)が
冥土へ通った入口という不思議な伝説があります。

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篁は、昼は朝廷に仕え、夜にはこの井戸を通じて冥界へ入り、
閻魔王庁で裁判を手伝っていた と云われ、
「冥界と通ずる得体知れず」 と恐れられていました。
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閻魔堂には、閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されています。
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境内の散策は自由ですが、但し本堂内や、本堂西側の〈冥土通いの井戸〉、
〈黄泉がえりの井戸〉、小野篁像などは、非公開のようですが、
講師の隙間からのぞけるようになっております。

7/3(土)から9/30(月)の期間 (8/1から8/19を除く) は、
第38回 京の夏の旅文化財特別公開の一環として、10時から16時の間、
これらが、特別公開されるようです。

ぜひ、時間を作ってまた行きたいものです。


〔六道〕と対極とされるのが、〔浄土〕であり、
958年源信にて書かれた『往生要集』には、地獄の様子を記されているものの、
六道の対極として浄土を描き、六道から脱出して浄土に迎えられるには、
〔阿弥陀仏]を信じて、その名を唱える事であると教えています。

口から、南無阿弥陀仏の六体の阿弥陀如来が出ている、教科書でも
有名な、念仏姿の空也上人像がある 六波羅蜜寺も この近くにあります。

六波羅は、もとは六原とかき、鳥辺野と同一地域をいい、その名の起こりは、
霊の多く集まるところに因るらしいです。

すなわち六「ろく」は霊の古語で、六「む」が墓地に関係ある語とされたため 
その而が充てられ、墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、
霊の多く集まる原野という事から六原の名が付いたとされます。


六原(六波羅)が葬送の地となったのは、桓武天皇が平安遷都にあたって
葬所とされ、六道珍皇寺を建てたのがはじまりといわれる。

この葬場は主に、一般庶民の遺骸を葬る所とし、
珍皇寺はこの葬場の管理をする寺で、はじめは愛宕寺と称し、
この寺領内には、僧俗を問わず多くの人々によって仏堂が造立され
空也上人もその一人で、空也上人が寺を造営するのにこの地を選んだのは、
ここが庶民の葬場だったからと云われます。

天暦五年(951)に、京の都に流行した疫病退散の為、
空也上人自ら十一面観音像を造り、車に安置し市中を曳き回り、
仏前に献じた茶を病人に授け 歓喜踊躍しつつ念仏を唱えると、
たちまち悪疫が止んだと云われます。

また上人は、十余年の歳月と多くの人々の協力によって、
諸方の名僧を請じ、紺紙に金泥で書いた大般若経六百巻の書写を行い 
転読し、夜には五大文字を灯じて諸堂の落慶法要を営んだのを、
西光寺と称したのが六波羅蜜寺の起源です。

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西光寺は一般には「六原の寺」とよばれ、
後に弟子の中信が仏語の六波羅蜜をあてて
六波羅蜜寺と改め、荘厳華麗な天台別院として栄えました。

平安時代の後期、平忠盛が、六波羅蜜寺の敷地内に 
平家一門の拠点となる「六波羅館」を置いたことをきっかけに、
六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家一門の邸館が栄え、
その数は何と最盛期には5200軒余にも及んだそうです。


元々平家は伊勢を拠点にしていた為、ちょうどそこからの
街道も近かったため、六波羅の地を選んだと云われます。

その後、平清盛の代になり平家が日本の政治の実権を握ると、
清盛は京都の街中に別の館を建てて拠点を移しましたが、
平家の軍事力の拠点はそのまま六波羅が中心となっておりました。

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その後、保元・平治の乱を経て、平家は源氏との争いに敗れて
没落の時を迎え、兵火に襲われ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して
焼失してしまいました。

平家が去った後、六波羅は勝った源頼朝のものとなります。
頼朝は義父(妻・政子の父)である北条時政に京都守護の職を与え、
その庁舎を六波羅に築きました。

その後承久の乱が起こると、
京都守護は鎌倉幕府の出先機関「六波羅探題」と改められ、
北条氏の者が京都の警備・監視役として駐留するようになりました。

その後、鎌倉幕府が足利尊氏らによって倒される際には、
京都の拠点であるとして、攻められて再び兵火に見舞われることになります。
このように、六波羅蜜寺は、時代の移り変わりを示す
中心的な場所となっていたのです。

現本堂は、貞治二年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたのを
昭和44年に開創千年を記念して、丹の色鮮やかな当時の姿に戻されたそうです。

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六波羅蜜寺の本堂から続く、宝物殿には、教科書でお馴染みの空也上人像他、
国宝の十一面観音立像、平清盛坐像、地蔵菩薩立像など平安・鎌倉期の木造彫刻の
名宝が並んでおり、圧巻です。

空也上人立像は、運慶の四男の康勝の作で、
胸に金鼓を右手に撞木を左手に鹿の杖をつき、膝を露わに草履を履き、
念仏を称える口から南無阿弥陀仏の六体の阿弥陀仏が現れたという
伝承そのままの 写実的彫刻と云われます。

龍谷大学の史学科の文化財めぐりで訪れた時以来の 
御姿を拝ませていただきました。
六波羅蜜時寺には、空也上人の踊躍念仏が伝えられています。
鎌倉期に念仏が弾圧された際、南無阿弥陀仏でなく、
「モーダナンマイトー」 「ノーボーナミトー」と、外部に解らない様に変えられた
ものの、動作・所作は空也上人の当時そのままを伝えていると云われます。

六波羅蜜寺のパンフレットより 空也上人立像

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六道珍皇寺から六波羅蜜寺に向かう路に、
有名な「幽霊子育飴」を売る店があります。

毎夜毎夜、女性が飴を買いに来るが、後で気づくと
お金は葉っぱになっており、ある夜に 後をつけると墓地に消え、
墓の下から赤ん坊の泣き声が聞こえていました。

死んだ女の墓の中で赤ん坊が飴を食べて育っていたという話になり、
以来、幽霊子育飴は名物になり、京都の名物として、
テレビや雑誌でもよく紹介されているのを目にします。


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六波羅界隈は、かつて、あの世とこの世を結んだ不思議な土地と云われた
名残を残し、また、平家や六波羅探題などの歴史ゆかりの地でもあり、
修学旅行生や観光客でにぎわう東山界隈からほど近いにも関わらず、
不思議なパワーと雰囲気を感じる街です。







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