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山城人気ランキング1位の苗木城―実は一万石の小藩の城 [城郭]

岐阜県中津川市苗木の街をを東西に貫流する木曽川。
その右岸にそびえる城山(432m)に築かれていたのが苗木城。
その最大の特徴は巨岩を取り込んだ石垣。
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元々、城マニアに人気の城でしたが、このところ一般の人にも人気急上昇。

国指定史跡 苗木城跡
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険阻な地形を活かして築かれた天守跡に懸造りで設置された展望台からは
絶景の360°パノラマが見晴らせます。
特に、朝の雲海に浮かぶ姿は、まさに天空の城。

「絶景!山城部門」では第1位に選ばれ、今注目のスポットです!
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さあ、苗木遠山資料館を出発です。

https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2019-05-17
先の、美濃金山城の経験を踏まえ、杖を借ります。
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ガイドさんに最初に案内されたのは、足軽屋敷跡。
足軽の宿泊施設や小頭部屋、稽古部屋などが並んでいたところ。
今は、天守台を下から望める絶景スポットとなっている。

足軽屋敷跡から見える天守展望台
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遠くから観ても頂上付近の巨岩や竜が巻き付いているかの様な石垣が解ります。
“龍の住む城”と言われるのも納得。
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足軽長屋跡から少し歩くと、大矢倉跡に到着します。
巨岩と石垣のコラボする姿は、日本のマチュピチュと呼ばれる所以。
苗木城の見どころの定番。
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風吹門は三の丸の出入り口。二階が飼葉蔵として使われていた。
苗木遠山資料館に、風吹門の柱と門扉が保管されています。

風吹門(大手門)跡
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四十八曲り
急坂がつづら折りになって山麓まで続く
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駈門(くもん)跡
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苗木城で一番大きな門―大門は、二階建てで、二の丸と三の丸を仕切っていた。
大きな行事以外は門を開けず、潜り戸を使って出入りしていた。

大門跡
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御徳川家よりの御朱印や御奉書などの貴重な書類などが収められていたという。
石段などは無く、必要時はハシゴをかけて昇り降りしていたとの事。
年に1度の虫干しの際に、家老や目付などが立会の元、鍵が開けられたという。

御朱印蔵跡
石垣の石の各辺が一直線が特徴の ノミ切り加工整合積
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綿蔵門跡
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坂下門跡
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巨大な岩石を見上げながら登っていくと…
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日本のマチュピチュという光景が、眼下に広がります。
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菱櫓門跡
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千石の井
千人の喉を潤したと言われるところから、その名が付いたとか。
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苗木城内で一番高い場所にあって、どんな日照りでも
水が枯れた事が無いと伝わる。
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千石井戸の東側に、渋紙蔵・上方蔵・郡方蔵など、
掛けづくりの小屋が並んでいた。
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千石井戸の西側にある本丸口門は、二の丸と本丸の境となり、
総欅で建てられていた。
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的場跡
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武器蔵と具足蔵
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玄関口門

口門を抜けて天守に入る正式ルートです。
門の先には土廊下の建物が奥の小屋につながっています。

本丸玄関の横にある巨石には、柱穴が開いている
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苗木城の天守は、2つの巨石にまたがる形で作られ、三層になっていました。
現在、展望台として整備されています。
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岩に穴をあけ柱を立て、そこ本丸を築いた建築方法は、
京都の清水寺と同じ懸造り。
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穴があけられた巨石。凄いですね。
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天守からの眺めも楽しめます。
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さて、ガイドさんの解説をお聞きしながら、山道を進んできましたら、
山城って、こんなにも よく観える立地条件だったっけ!? の疑問が…

「観光客の人が観易い様に、遮っていた樹木などは全てバッサリ無くしました!」
さらり、御自慢気に、「前回よりサッパリしてとても観え易いでしょ!?」
と、ツアーの添乗員さんにも言われていました。

山城ブームと2020年の大河ドラマ[麒麟がくる]に向けての事とは思いますが、
自然にそんな手を加えて、災害に対しては大丈夫? と少し心配。

馬洗岩

天守台の南下にある大岩は、馬洗岩と言われ、
周囲15mの花崗岩の天然石でできています。
敵に攻められて水の手を切られた時、この岩の上に馬を乗せ、
米で馬を洗って水が豊富の様に欺いた為、その名がある。
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笠置矢倉跡
本丸の西側にあり、巨石の上に立てられた懸屋造りで三階建てで、
眺望がよく、笠置山が正面に見えた事からその名がある。
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ガイドさんから聞いた話ですが、こんな立派なお城と天守を築いた
遠山氏はわずか一万石余り。
一万石の大名で天守を築いたのは、遠山氏の他に例がないとか。
そんな訳で、石高に見合わず天守までこしらえた事で、城は思わぬ事態に。


壁に漆喰を施す資金が無く赤壁のままで、別名赤壁城となる。
赤土の壁を白くすると龍が現れ白壁を削り取った―と伝わる伝説も、
藩の面目を保つ為に作った話と言われている様です。

苗木遠山資料館も赤壁仕様
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ガイドさんの解説によれば、さながら―映画[超高速参勤交代]
のモデルの藩の様な状況だったとか。
宿泊資金がない為、江戸まで、たったの5泊6日でひたすら
駆けて行かれていたそう。
そして、関所では、行列の人員を現地調達して面目を保つ。

苗木城を観て回ってエピソードを聴くと、
そんな小大名遠山氏の天守を作った心意気と、
巨大岩石の上に天守を作ったそのセンスに脱帽。
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帰り道、ガイドさんの話題は 先日までの放送で知名度UP?
2019年NHK大河ドラマ[いだてん~東京オリムピック噺~]に出てくる
東京高等師範学校の教授になられた 可児徳先生に。
ドラマでは、日本初のオリンピック参加に尽力し、女子スポーツの発展に
貢献した姿が描かれています。

先生は、そのほかにも留学先から日本に初めてデッドボールを持ち込み、
ルールを改正しながらドッヂボールとして広められたお方。

その可児先生が、ここ苗木の御出身なのですが、すごくタイムリーなのに
大抵の観光客の人は、番組が低視聴率の故、誰もご存じない…?

みかねた私が、「独特のキャラで、面白いですね」と観てます感を出したら、
真顔で「いえ、ドラマの可児先生とは全く違って厳格な人だったのすよ!」
と、ビシッと返されてしまいました…そうだったのですね…。

満足感で苗木城を堪能して、この山城巡りの旅を終えました





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岐阜市の昭和表紙DSC_0444.JPG
2019年6月27日刊行 『岐阜市の昭和』(写真アルバム)  ご覧下さいませ

詳細は 
https://ma35-main.blog.ss-blog.jp/2019-06-15
https://ma35-main.blog.ss-blog.jp/2019-06-25





拙著**痛みもコリも一瞬でとれる「筋ツイスト」が特集されました↓

月刊からだにいいこと 2019年 5月号

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  • 発売日: 2019/03/15
  • メディア: 雑誌





各書店さんに感謝! ^m^ 



あくまでもイメージであって、正確なやり方を解説したものではありませんので御了承下さい







動画のモデル 宮武衿佳さま

https://twitter.com/erika_mytk/status/988812536400171009

動画のナレーション 柊唯也さま

https://twitter.com/yuiya_h/status/988794946978136065



カメラマンの松川コウジ先生

https://twitter.com/PHOTOkoji/status/984751927241031681

モデルの柳沼陽菜さま

https://www.instagram.com/p/Bg8kMM0jMHQ/?hl=ja&taken-by=yaginumahina


(株)ワルキューレのスタッフの皆様、㈱秀和システムの皆様、
関係者の皆様たいへんお世話になりまして有り難うございました。




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信長の築いた石垣が残る 小牧山城 [城郭]

史跡小牧山 小牧市歴史館・小牧城への道へは
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ここからも↓
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大手道 も あるようですが
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私共は、こちらの入口より進行しました
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曇天だったから、未だ、疲労もマシって感じ
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小牧山城は、桶狭間の戦いに勝利したのち信長が築城し、岐阜に天下布武の拠点を
移すまでの4年間、信長が居城としました。

今は、石垣などの遺構は残りますが、店主や櫓などの当時の建物は残っていません。
天守閣風の建物が建てられ、歴史館となっています。

小牧市歴史館・小牧城  
前後して到着した親子さん達の会話からも
「もっと遠く険しいかと思っていたけど、意外に早く着いたね」
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展望階よりの眺めは、晴天でもクッキリスッキリでは無いそうで
曇天の本日の視界は さらに かすんでいる とか・・・↷
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顔出しパネル
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道中からの大汗がどっと吹き出し、拭いながら
小休憩とさせて頂くべく、モニターに向いて腰掛けて
小牧長久手合戦の解説の音声画像のスイッチon

小牧・長久手の合戦の際、家康は、小牧山の信長の城跡を改修して陣城を
築きました。

徳川軍の隊の緻密且つ猛攻の前に、豊臣軍は裏を掻かれたりして
それぞれの隊が惨敗を喫するという、当地での合戦に見入りました。

かねてからの疑問、「なぜ、家康が合戦に勝利しながら豊臣有利の和議を
結ばざるを得なかったのか?」
の疑問も解けました。

徳川・織田信雄の連合軍のうち、信雄軍が一方的に負け続けたため、
小牧長久手の局地的な勝利を機に、和議を結ばざるを得なかったようです。

通路に設置された、扇風機の風で歩みを止め涼みながら、館外へ


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小牧山城の見どころは、何といっても、信長の築いた石垣です。
主郭の周囲に築かれた石垣は、二段に築かれているのが特徴です。

上段に巨石を用い、下段の石垣は上段より小さな均等な大きさの石材を選び、
横目地を通そうとしている点で、見栄えを意識しています。

石材と石材の隙間には間詰石が詰められているのであるが、装飾的に配置している
てんで、見せる城が意識されていたといえます。

石垣の裏込め石  間近で
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転落石
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数多くの解説看板が設置してありますので
城郭の改革者と言われる信長の築城の原点ともいえる城を
時間をかけて観て回られると良いのでは?と思いました

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樹木、植物、草花 も 四季折々に楽しめるようです。

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三大山城のひとつ 岩村城攻略 [城郭]

岩村城は、別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で
備中松山城・大和高取城と並んで日本三大山城の1つに数えられ、
海抜721mに位置し、日本一高い所に有る城と言われています。

岩村城は、文治元年に加藤景廉によって築かれました。
景廉は源頼朝より遠山荘の地頭に任ざれ、その嫡男景朝が岩村に移り、
加藤の姓を地名の遠山に攻め、以後遠山氏の居城となりました。

戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年に
岩村城を奪取して入城したが、三年後、織田軍に敗れ、
以降城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、
田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替しました。

田丸具忠は、小山評定で三成挙兵の報を聞き、多くの豊臣恩顧の大名が
家康に味方するのを誓った中で 豊臣への恩義から
唯一従わず引き返したと言う逸話が残るように、
西軍に与したため改易されました。

その後、徳川譜代松平氏が入城し、丹羽氏5代を挟み 
松平氏の居城として明治維新に至りました。

長篠の合戦に勝利した織田信長が、岩村城を奪回して川尻鎮吉を城主と
した時に 城の大改修を行い、城下街づくりを手掛けました。
次いで森蘭丸・長可・忠政と森氏3代の城代各務兵庫が近世城郭へと 
改修を完成させました。

城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、天守閣はなかったものの、
本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、
丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、
要所に櫓、塀、城門が構えられました。

建物は明治維新により廃城され、その後、明治6(1873)年に取り壊されました。

岩村藩校の知新館跡を通り、岩村城太鼓楼から登城口を目指します。

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岩村藩校・知新館は元禄十五年(1702年)に
松平乗紀(のりただ)によって創立されました。
美濃においては最初の藩校です。全国的にも古く十指に入ると言われます。
創立当時2万石の小藩でありながら文教政策に重点をおき、
有能な藩士の育成を図られていました。
知新館の知新とは孔子の論語の「温故知新」からとったものです。

城址公園には知新館の正門が移築されています。

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知新館に通う者の のどを潤したと言われる 温故の井が残ります。

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江戸時代に入り 平和が訪れると 城主が山頂に住む必要性が無くなり、
1601年に、松平和泉守家乗が山麓に藩主邸を造り政治の中心とすると共に、
城下に時を知らせる 太鼓楼を築いたと言われます。

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登城口から少し登ると 下田歌子勉学所があります。
実践女子学園の創設者となる 歌子は、
学者の家に生まれ育ち、知新館の教授を父に持つも、
女性である為に 知新館で学ぶ事が出来ず、独学で和漢学を修めました。
この勉学所は、父親の書斎であり、女史が勉強した部屋と言われます。

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これより八百米の看板があり、 いよいよ石畳の藤坂に突入します。
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藤坂は 藤坂の険とよばれる急坂で、岩村城守備の前衛の役目を持ち、
一の門に至る約300メートルの間を云います。
さすがに坂はきつく、息は切れ、汗ばんで来たので 上着を脱いで進みます。

途中で大きく左折していますが、この地点を初門又は假御門と称し、
戦になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣を造った為 
敵は容易に進む事が出来なかったのです。

又、この初門の地点から城下街を一望にする事が出来るので
敵の動静も知る事ができたのです。

藤坂の名は伝説として
岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から
藤の実をとりよせて植えた事から始まったと云われます。

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一の門
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城となります。
一の門は二階門となっており、左側に番所があって、平時でも監視の番人がいて
城の西南側の監視を行っていました。

右側の台地には多聞櫓(城の石垣上の屋根 城壁を兼ね、兵器庫などに用いる)
の他に 屋敷があり、ここに宿泊して勤務にあたったそうです。

この辺になると 少しばててきたので、休憩をとりつつ 山頂を目指します。

一の門をくぐると土岐坂となりますが その突き当りの石垣の約10m幅は
岩村城において最も古く中世末期のものと云われています。

土岐門は、岩村遠山軍が土岐氏を破りその城門をここに移したと言う伝説
からその名があります。
土岐門は廃城の際に岩村町飯羽間にある徳祥寺へ山門として移されました。
今も、徳祥寺にはこの土岐門が岩村城の貴重な遺構として現存しています。

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この先、大手門へ行くには かつては空堀に架かる畳橋を渡らなければなりませんでしたが、
現在は橋がなく空堀りを歩く事ができます。
畳橋とは敵が来ると橋板を取り外し、堀にする事からこう呼ばれていました。

大手門の前には 大手櫓門を庇う防御施設である枡形があり、
空掘りに臨んで三重櫓が威容を誇り、城下町から見ると天守の様に見えたと云います。
この辺りが最も要害堅固な場所であり、絶壁に望んで美しい勾配を描く
石垣を見る事ができます。

大手門は正門の事で、城門の中で最も重要な門であるから、
その防備は厳重を極めています。
大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の桝形へ入る平重門です。
しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。
この辺りの石垣は最も美しく絶壁に臨んだ三日月形の曲線は
扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれています。

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本丸へ入る搦手門は埋門となっていて、石垣の中に一階部分は埋まり、
門の上にこれに被さる様に長い多門があって監視と防備の役目を果たしました。
又、敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまう事も出来るので、
他の門に比べて埋門は堅固でありました。

埋門の石垣は野面積み、打込ハギ、切込ハギの三種を
一度に見る事が出来るものです。
これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは
享保三(1718)年にあった大地震のあと修復したものであると云われます。
埋門左側の長い石垣は土岐坂に次ぐ古いもので、
一見粗雑に見えて意外と頑丈である様です。

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山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった山城特有のものです。
この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれました。
菱櫓が全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した
城郭の貴重な歴史的遺構といわれます。

菱櫓の前に俄坂門があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を
監視しました。
中世の頃はここが大手門でしたが、実際は裏手の門で、普段は使いませんが
落城等の非常口として用いられたらしいです。
俄坂と言うのもその意味がある様です。
俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、
天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていたものです。

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この辺りから、岩村城の真骨頂である石垣群 に
紅葉が映え 圧巻な風景が続きます。
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二の丸の石垣が見えてくるとあと一息です。

麓から登る事30分余り、ようやく山頂本丸跡に到着です。

本丸は海抜721mあり、日本の山城の中で最も高地にあります。
その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされている。
東曲輪からも二の丸からの入口も埋門を通じてやっと進入できます。

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本丸には二重櫓と納戸櫓があり、二重櫓は城主の最後の拠点となる
重要な建物でありました。
多門は三つあり、東西の石垣に沿ってあった様です。

山城の為、天守閣は無かったのですが、城内の要所要所に11の櫓又は櫓門があって
常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌握される様になっていました。
本丸の柵門の傍に岩村城創業者加藤景廉公が植えた松がありましたが
安政年間に大風の為、折れて消滅したと云われます。

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本丸南側、出丸は本丸の南部の防御の役目を持ち、
東曲輪、帯曲輪と共に本丸を防衛しました。
現在は、駐車場になっており、車でもここまで登って来れるようになっています。

櫓が二つ 多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかったのです。

櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にあり、
太鼓櫓には大太鼓があって、非常の際は城下に知らせる事ができました。
この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し 
定められた部署について戦の準備をしました。
城下町の町民は火を全て消し、木戸を締めて城からの指令を待ったと云われます。

多門は三つあり、一つは武者隠多門と言って、戦の時に城兵を待機させた建物です。
一つは大工小屋と言って城の営繕関係の中間が仕事をしていました。

ここから尾根筋に2ヶ所の堀切で隔てたれた南曲輪があります。

岩村城は中世に峻険な地形を巧みに利用して創築された山城ですが、
近世になってから近世城郭へと改築され、
中世城のうちかなり多くの部分が切り捨てられました。

南曲輪は、その中世城郭の 堀切、土塁、腰曲輪、土橋が典型的に残っている
中世の岩村城の遺構です。 


岩村城には17ものの井戸が残されていて、そのうちの10数個は、
今尚、絶える事なく 水が湧き出ています。

霊泉 霧ヶ井
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霧ヶ城と言われる基となった井戸です。

伝説によると敵が攻めて来た土岐、城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると、
忽ちにして雲霧が湧き出して全山を覆い、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、
そこへ城兵が突入して勝利を得たと云われます。
これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ
天下の名城と伝えられています。

霧ヶ井はどんなに日照りが続いても決して水の涸れない不思議な井戸で、
江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられています

竜神の井

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この井戸は、岩村城のうち最大規模で、
昭和60年に創築800年を記念して復元されました。
昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されましたが
今も絶える事なく湧き出ております。


昇竜の井
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山頂 本丸跡にあるのが昇竜の井戸です。
山の上にありながら、水が枯れる事が無かったといわれています。

山頂にて、絶景を楽しみながら、休憩をして 麓に戻ります。

浄土真宗大谷派の 浄光寺に立ち寄ります。

松平家乗と親交があった内田祐正が群馬県伊勢崎市に開いたのが
始まりと伝えられています。
1601年、家乗が岩村城城主になると祐正も随行し
岩村の熊洞に浄光寺を建立しました。
1649年に現在地に移り、二度の火災で堂宇が焼失、
現在の本堂は1769年に再建されたものです。


伽藍は山門・本堂・経蔵・庫裏などから成ります。

現本堂は1769年の再建で、
現在では全国的にも数少ない置屋根式土蔵造の建物です。
当初は柿葺きあったが、後に瓦葺きとされました。

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江戸時代の寺院本堂建築で土蔵造りを採用するのは極めて稀で、
1779年に再建された経蔵と共に恵那市指定文化財に指定されています。

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建物の他にも、多くの文化財を残しております。

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朝、通った時には 人通りまばらだった城下町は、お昼を過ぎて 観光客で
賑わってきました。
足早に 駅に引き返し、再び明智鉄道にて 明智駅・大正村を目指します。
丁度、急行大正ロマン号に乗れました。

キノコ料理が食べられる食堂車2両が連結され、団体客でいっぱいでした。

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☆2015/12/11 私の初めての著書が出版されます。
応援よろしくお願いします 「指ではじくだけで肩の痛みが治る!-江戸の秘術から生まれた凄ワザ」 江戸時代の按摩術が、現代人の症状によく効く事を紹介した本です。
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どうぞ 皆様、よろしくお願い申し上げますm(__)m

nice!(3) 
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小堀遠州が築いた水口城 と 大池寺庭園 [城郭]

竹生島クルーズより戻り、近江鉄道の彦根駅に戻ってきました。
通りには、朱い幟旗に井の字が記され、
ミニチュア模型の彦根城を足下に この像。

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ここからは、彦根・竹生島1dayパスにて、近江鉄道乗り放題の旅です。

まずは最大限フル利用してみようかな?と考えて、貴生川行の電車にて 
一度訪れてみたいと思っていた 水口城南駅を目指します。

既に入線済みの、貴生川行の電車は、春の交通安全期間中という事で 
車両のデザインは黒と白のパトカー仕様、
滋賀県の交通安全大使の AKB48田名部生来さんの
警察官姿の写真が大きく車体に描かれ、サインもしてあり、車内天井部も
決めポーズ写真いっぱい の斬新なもので 郷土のアイドルを応援する
意気込みを感じました。

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途中の 八日市駅は東近江大凧まつり の当日の為、畳2百枚分の
大凧などが上がるのを見学する見物客で混雑していました。

八日市を過ぎると、車窓の風景はのどかな感じに一変し、
〝郷土の英雄蒲生氏郷を大河ドラマの主役に〟 と書かれた看板が立つ 
日野駅 を過ぎると、どこまでも続く、休耕田ばかりの景色がひろがり、
店はおろか 民家もまばらに・・・

まだ昼食をとっておらず、
乗船場で少し早いお昼を食べておけ良かったかな と後悔し、
何時に食事にありつけるのかと と 少し不安になりました。

電車を降りる予定の 水口城南駅が近付くにつれ 少し街並みが見えて 
ホッとしたのも束の間、駅を降りると、食事をとれそうな店は無く、
とりあえず 水口城を目指して歩きましたが、城を過ぎても、
ランチ時を過ぎて 開いているお店は見当たらず どうせならと、
以前から行きたかった 大池寺方向に 店を探しながら歩きました。

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名阪国道沿いに、マクドナルドとサイゼリアをみつけ、やっと腹ごしらえができ、
名阪の下をくぐって 大池寺の名前が彫られた 道しるべをみつけました。

その方向に歩くと、村社 八幡神社があり、その奥に
行基が 日照りに悩む農民の為に造営した 灌漑用の溜池である 
弁天池・しょうぶ池・びくに池・今池 の心字の池が広がります。
寺の名も、この池に由来しています。

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大池寺は 天平年間に 行基が開創しており、池の中央に本堂を建て、
「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝えられています。
天正年間 兵火により、天台寺院としての七堂伽藍はすべて消失しましたが、
この 行基作といわれる釈迦如来像のみが 奇跡的に残り、
現在もお姿を拝観する事が出来ます。

江戸期に入り、京都花園妙心寺の丈巌慈航禅師が当地を訪れた際、
草庵に安置された仏像を見て、臨済宗寺院として再興され、
寺名を「青蓮寺」から、「龍護山大池寺」と改名されらしいです。

入り口に立つと よく手入れされた庭の奥に 
仏殿が見え 静寂の中に凛とした 佇まいをみせております。


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拝観受付に行くと、暫くすると
着物姿の女性の方が受付・案内をして下さいました。
先ずは、前庭の樹齢350年以上という「開山臥龍の松」を観賞しました。

案内の方が言われた様に、築山枯山水に 老松で以て 鶴の舞
を表したという 額縁の中の絵の様な 眺めです。

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前庭は、築山枯山水で 蓬莱山と呼ばれ、白壁の土蔵によく映えます。
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案内のビデオを見せて頂いてから、いよいよ 蓬莱庭園へ。
蓬莱庭園は、江戸初期に水口城築城に携わった 
小堀遠州が、水口築城を祝して作庭したと言われる 
サツキの大刈り込み観賞式枯山水庭園です。

案内されて 庭の見える 書院に入った途端 
「わぁ すごい!」という声が思わず出た位の
圧倒される様な迫力のある 見事な庭です。

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私は、大学時代京都に住み、
京都の有名な寺院の庭園を見て回りましたが、
これほどの庭には出会った事は ありませんでした。

大波小波が立つ大海に七福神が乗る宝船が浮かんだ仙境が 
サツキの刈り込みで表現され、刈込による亀島や中央の礼拝石が配され 
刈込の 曲線の美しさは 息をのむ美しさです。
サツキの花は ほんの僅かしか咲いていませんでしたが、翠一色の刈込の方が、
禅の幽玄の美しさを 表している様で 反って良かったのでは? と思いました。

この庭を眺めながら、抹茶を頂き、至福のひと時を過ごす事が出来ました。

その後、本堂に安置されている本尊 釈迦如来像を参拝させて頂きました。
この空間に入ると、庭の雰囲気と全く異なり、信仰の場所と変わり、
天平時代の作といわれる 釈迦如来は古の雰囲気が漂う 趣を感じます。
そして その包み込まれるような 大きさに圧倒されます。

大池寺は、行基ゆかりの 古の霊跡に 小堀遠州の禅味あふれる趣が加わり、
わざわざ 訪れたいスポットとして お勧めです。

市街地に戻り、水口城跡をめざします。
水口は、古城山の水口岡山城跡と 水口城跡の二つの城跡があります。
水口岡山城は、天正13年に 中村一氏が 豊臣秀吉の命により 城を築き 
水口城下町の原型が出来ました。
その後、増田長盛 長束正家と五奉行衆 が城主を務めました。
-関ヶ原の戦い-で 石田方に与した 長束正家が西軍敗戦後に 
立て籠もりましたが、池田長吉らにより 攻め込まれて 
降伏し 落城しました。

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石田三成の居城であった 佐和山城のあった彦根と同様、
江戸期に造られた水口城は、場所を移して築かれています。

水口は、古くから伊勢に通じる街道の要所として 宿場町が形成され、
関ヶ原の戦いの後 幕府の直轄地となり 東海道の宿駅として 
家康も利用しておりました。
しかし、宿泊施設が少ないため、三代将軍 家光が 上洛のための
宿館を築かせましたが、これが、水口御茶屋 すなわち、水口城です。

築城の作事奉行には 建築・ 作庭・茶道で有名な 小堀遠江守政一 があてられ、
のべ 10万人の大工が動員されたそうです。
水口城は石垣や 堀に囲まれた本丸と、管理施設である二の丸の二郭で構成され、
本丸御殿は将軍の宿館が建てられ、奥向と 表向に分けられ、
奥向 には、将軍の御座所が設けられ、これに面した庭園には 二階建ての望楼風の
御亭 が建てられました。

家光上洛後は、常磐が管理していましたが、
1682年に 石見より加藤明友 が入城し、水口藩の居城となりました。
明友は、豊臣秀吉子飼いの武士で賤ヶ岳質本槍で有名な 加藤嘉明を祖父に持ち
この城を <碧水城>と命名しました。
加藤氏は、幕府に気を遣い 本丸御殿には足を踏み入れずに 二の丸御殿を築いて
居館としていたそうです。

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明治維新後 廃城となって、建物や石垣の大半が消失しましたが、
本丸から出丸にかけて堀および石垣が残り、その遺構が残る出丸部分に 
本丸の乾櫓を模した木造2層2階建ての破風を凝らした建物が建ち、
資料館となっています。
矢倉は 明治維新後に民家に売却した建物の古材を活かして建てられています。
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また、長屋門や御成門、御成橋、土塀などが復元されています。
御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、
水口岡山城から運んだ石で積まれているといわれています。

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水口城は、城と言うよりは 館で 往時の建物は残っていませんが、
小堀遠州の足跡を 大池寺とともに訪れると
彼の才の素晴らしさを 感じる取る事が出来るのです。







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