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三大山城のひとつ 岩村城攻略 [城郭]

岩村城は、別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で
備中松山城・大和高取城と並んで日本三大山城の1つに数えられ、
海抜721mに位置し、日本一高い所に有る城と言われています。

岩村城は、文治元年に加藤景廉によって築かれました。
景廉は源頼朝より遠山荘の地頭に任ざれ、その嫡男景朝が岩村に移り、
加藤の姓を地名の遠山に攻め、以後遠山氏の居城となりました。

戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年に
岩村城を奪取して入城したが、三年後、織田軍に敗れ、
以降城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、
田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替しました。

田丸具忠は、小山評定で三成挙兵の報を聞き、多くの豊臣恩顧の大名が
家康に味方するのを誓った中で 豊臣への恩義から
唯一従わず引き返したと言う逸話が残るように、
西軍に与したため改易されました。

その後、徳川譜代松平氏が入城し、丹羽氏5代を挟み 
松平氏の居城として明治維新に至りました。

長篠の合戦に勝利した織田信長が、岩村城を奪回して川尻鎮吉を城主と
した時に 城の大改修を行い、城下街づくりを手掛けました。
次いで森蘭丸・長可・忠政と森氏3代の城代各務兵庫が近世城郭へと 
改修を完成させました。

城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、天守閣はなかったものの、
本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、
丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、
要所に櫓、塀、城門が構えられました。

建物は明治維新により廃城され、その後、明治6(1873)年に取り壊されました。

岩村藩校の知新館跡を通り、岩村城太鼓楼から登城口を目指します。

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岩村藩校・知新館は元禄十五年(1702年)に
松平乗紀(のりただ)によって創立されました。
美濃においては最初の藩校です。全国的にも古く十指に入ると言われます。
創立当時2万石の小藩でありながら文教政策に重点をおき、
有能な藩士の育成を図られていました。
知新館の知新とは孔子の論語の「温故知新」からとったものです。

城址公園には知新館の正門が移築されています。

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知新館に通う者の のどを潤したと言われる 温故の井が残ります。

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江戸時代に入り 平和が訪れると 城主が山頂に住む必要性が無くなり、
1601年に、松平和泉守家乗が山麓に藩主邸を造り政治の中心とすると共に、
城下に時を知らせる 太鼓楼を築いたと言われます。

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登城口から少し登ると 下田歌子勉学所があります。
実践女子学園の創設者となる 歌子は、
学者の家に生まれ育ち、知新館の教授を父に持つも、
女性である為に 知新館で学ぶ事が出来ず、独学で和漢学を修めました。
この勉学所は、父親の書斎であり、女史が勉強した部屋と言われます。

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これより八百米の看板があり、 いよいよ石畳の藤坂に突入します。
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藤坂は 藤坂の険とよばれる急坂で、岩村城守備の前衛の役目を持ち、
一の門に至る約300メートルの間を云います。
さすがに坂はきつく、息は切れ、汗ばんで来たので 上着を脱いで進みます。

途中で大きく左折していますが、この地点を初門又は假御門と称し、
戦になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣を造った為 
敵は容易に進む事が出来なかったのです。

又、この初門の地点から城下街を一望にする事が出来るので
敵の動静も知る事ができたのです。

藤坂の名は伝説として
岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から
藤の実をとりよせて植えた事から始まったと云われます。

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一の門
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城となります。
一の門は二階門となっており、左側に番所があって、平時でも監視の番人がいて
城の西南側の監視を行っていました。

右側の台地には多聞櫓(城の石垣上の屋根 城壁を兼ね、兵器庫などに用いる)
の他に 屋敷があり、ここに宿泊して勤務にあたったそうです。

この辺になると 少しばててきたので、休憩をとりつつ 山頂を目指します。

一の門をくぐると土岐坂となりますが その突き当りの石垣の約10m幅は
岩村城において最も古く中世末期のものと云われています。

土岐門は、岩村遠山軍が土岐氏を破りその城門をここに移したと言う伝説
からその名があります。
土岐門は廃城の際に岩村町飯羽間にある徳祥寺へ山門として移されました。
今も、徳祥寺にはこの土岐門が岩村城の貴重な遺構として現存しています。

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この先、大手門へ行くには かつては空堀に架かる畳橋を渡らなければなりませんでしたが、
現在は橋がなく空堀りを歩く事ができます。
畳橋とは敵が来ると橋板を取り外し、堀にする事からこう呼ばれていました。

大手門の前には 大手櫓門を庇う防御施設である枡形があり、
空掘りに臨んで三重櫓が威容を誇り、城下町から見ると天守の様に見えたと云います。
この辺りが最も要害堅固な場所であり、絶壁に望んで美しい勾配を描く
石垣を見る事ができます。

大手門は正門の事で、城門の中で最も重要な門であるから、
その防備は厳重を極めています。
大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の桝形へ入る平重門です。
しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。
この辺りの石垣は最も美しく絶壁に臨んだ三日月形の曲線は
扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれています。

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本丸へ入る搦手門は埋門となっていて、石垣の中に一階部分は埋まり、
門の上にこれに被さる様に長い多門があって監視と防備の役目を果たしました。
又、敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまう事も出来るので、
他の門に比べて埋門は堅固でありました。

埋門の石垣は野面積み、打込ハギ、切込ハギの三種を
一度に見る事が出来るものです。
これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは
享保三(1718)年にあった大地震のあと修復したものであると云われます。
埋門左側の長い石垣は土岐坂に次ぐ古いもので、
一見粗雑に見えて意外と頑丈である様です。

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山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった山城特有のものです。
この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれました。
菱櫓が全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した
城郭の貴重な歴史的遺構といわれます。

菱櫓の前に俄坂門があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を
監視しました。
中世の頃はここが大手門でしたが、実際は裏手の門で、普段は使いませんが
落城等の非常口として用いられたらしいです。
俄坂と言うのもその意味がある様です。
俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、
天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていたものです。

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この辺りから、岩村城の真骨頂である石垣群 に
紅葉が映え 圧巻な風景が続きます。
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二の丸の石垣が見えてくるとあと一息です。

麓から登る事30分余り、ようやく山頂本丸跡に到着です。

本丸は海抜721mあり、日本の山城の中で最も高地にあります。
その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされている。
東曲輪からも二の丸からの入口も埋門を通じてやっと進入できます。

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本丸には二重櫓と納戸櫓があり、二重櫓は城主の最後の拠点となる
重要な建物でありました。
多門は三つあり、東西の石垣に沿ってあった様です。

山城の為、天守閣は無かったのですが、城内の要所要所に11の櫓又は櫓門があって
常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌握される様になっていました。
本丸の柵門の傍に岩村城創業者加藤景廉公が植えた松がありましたが
安政年間に大風の為、折れて消滅したと云われます。

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本丸南側、出丸は本丸の南部の防御の役目を持ち、
東曲輪、帯曲輪と共に本丸を防衛しました。
現在は、駐車場になっており、車でもここまで登って来れるようになっています。

櫓が二つ 多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかったのです。

櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にあり、
太鼓櫓には大太鼓があって、非常の際は城下に知らせる事ができました。
この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し 
定められた部署について戦の準備をしました。
城下町の町民は火を全て消し、木戸を締めて城からの指令を待ったと云われます。

多門は三つあり、一つは武者隠多門と言って、戦の時に城兵を待機させた建物です。
一つは大工小屋と言って城の営繕関係の中間が仕事をしていました。

ここから尾根筋に2ヶ所の堀切で隔てたれた南曲輪があります。

岩村城は中世に峻険な地形を巧みに利用して創築された山城ですが、
近世になってから近世城郭へと改築され、
中世城のうちかなり多くの部分が切り捨てられました。

南曲輪は、その中世城郭の 堀切、土塁、腰曲輪、土橋が典型的に残っている
中世の岩村城の遺構です。 


岩村城には17ものの井戸が残されていて、そのうちの10数個は、
今尚、絶える事なく 水が湧き出ています。

霊泉 霧ヶ井
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霧ヶ城と言われる基となった井戸です。

伝説によると敵が攻めて来た土岐、城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると、
忽ちにして雲霧が湧き出して全山を覆い、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、
そこへ城兵が突入して勝利を得たと云われます。
これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ
天下の名城と伝えられています。

霧ヶ井はどんなに日照りが続いても決して水の涸れない不思議な井戸で、
江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられています

竜神の井

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この井戸は、岩村城のうち最大規模で、
昭和60年に創築800年を記念して復元されました。
昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されましたが
今も絶える事なく湧き出ております。


昇竜の井
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山頂 本丸跡にあるのが昇竜の井戸です。
山の上にありながら、水が枯れる事が無かったといわれています。

山頂にて、絶景を楽しみながら、休憩をして 麓に戻ります。

浄土真宗大谷派の 浄光寺に立ち寄ります。

松平家乗と親交があった内田祐正が群馬県伊勢崎市に開いたのが
始まりと伝えられています。
1601年、家乗が岩村城城主になると祐正も随行し
岩村の熊洞に浄光寺を建立しました。
1649年に現在地に移り、二度の火災で堂宇が焼失、
現在の本堂は1769年に再建されたものです。


伽藍は山門・本堂・経蔵・庫裏などから成ります。

現本堂は1769年の再建で、
現在では全国的にも数少ない置屋根式土蔵造の建物です。
当初は柿葺きあったが、後に瓦葺きとされました。

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江戸時代の寺院本堂建築で土蔵造りを採用するのは極めて稀で、
1779年に再建された経蔵と共に恵那市指定文化財に指定されています。

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建物の他にも、多くの文化財を残しております。

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朝、通った時には 人通りまばらだった城下町は、お昼を過ぎて 観光客で
賑わってきました。
足早に 駅に引き返し、再び明智鉄道にて 明智駅・大正村を目指します。
丁度、急行大正ロマン号に乗れました。

キノコ料理が食べられる食堂車2両が連結され、団体客でいっぱいでした。

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