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豊臣秀吉・秀頼 ブログトップ

豊臣の光と影 -豊国神社とその界隈の散策 [豊臣秀吉・秀頼]

鴨川に掛る正面橋を渡り、正面通りを東山方向に歩いていくと、
道の両側に露店が並び、
その奥に豊国神社の鳥居が見えてきます。

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「ほうこくさん」の名で親しまれる豊国神社は、
豊臣秀吉をご祭神として、旧方広寺大仏殿に建てられています。

秀吉は、伏見城で亡くなった後、阿弥陀ヶ峰に埋葬され、
翌年山腹に権現造りの壮麗にして雄大な社殿が造営され、
後陽成天皇より 「豊国大明神」 の神号を与えられて
神として祀られました。

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境内は約30万坪を誇りましたが、豊臣家滅亡後には、
徳川の手により完全に破却されました。
現在の豊国神社は、明治に入って復興されたものです。

その豊国神社の拝殿前に建つ唐門は、伏見城の遺構とされており、
西本願寺・大徳寺の唐門とともに国宝の三唐門と云われています。
この門は、伏見城の廃城後、二条城へと移された後、南禅寺の金地院へ、
最後に伏見城を建てた秀吉を祀る豊国神社へと移されました。

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漆を塗り、彫刻や飾金具を施したその豪華絢爛な唐門は、
桃山文化を代表する建築の一つとして 国宝に指定されています。

正面上部の鶴の彫刻には目玉がない為
「左甚五郎の目無し鶴」 と呼ばれています。
これは名人・左甚五郎の彫刻の出来が良過ぎた為に、鶴に目を入れると
魂が宿り 飛び去ってしまう事を恐れ、目を入れなかったそうです。

又、唐門の扉には「鯉の滝登り」の彫刻があります。
鯉は滝を登って龍になるとの故事がある事から、
この唐門は立身出世の関門「登竜門」と云われています。

この唐門を潜ると、出世できると云われていますが、
普段は、門から中に入る事はできません。
正月の三が日や御祈祷を受ける場合のみ、
この唐門を潜る事ができるのです。

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宝物館には、秀吉に縁のある品々や、豊臣家に関係するもの
が中心に展示されています。
数ある所蔵品の中でも、特に華やかなのが
重要文化財にも指定されている『豊国祭礼図屏風』です。

徳川の世になっても、京の町衆への豊臣人気を裏付ける
華やかな祭りであった事が窺われます。
まだこの頃は、家康は太閤を崇拝する上方の人々に気を遣っていた様です。

もうひとつ、宝物殿の中で、凄いものが見られます。
それは、何と、秀吉本人の歯です。
これは、秀吉子飼いの武将の加藤嘉明に秀吉自身が贈ったものと云われます。
主君からの形見の品として、宝塔に大切に収められ、
今日まで神社に伝えられています。

歯は、調べられた報告によると、
左上奥の大臼歯で、この歯から、秀吉の血液型がO型であ
る事も判明したそうです。

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宝物殿自体も大正時代のコンクリート製の建物で展示ケースは大正ガラス

豊国神社から、大仏と国家安康の鐘で有名な 方広寺に抜けられます。

「ひでよりの事、かへすがへすも 頼み候」
と、幼い我が子 秀頼の行く末を、
徳川家康を筆頭とする五大老と石田三成らの五奉行に託して、
豊臣秀吉はこの世を去りました。
秀頼亡き後、家康は表向きは秀頼を立てながらも着々と権力を握り、
それを阻止しようとした石田三成を-関ヶ原の戦い-で退けます。

その後も、太閤殿下の世嗣として、豊臣恩顧の大名たちの庇護を受け、
上方の町衆の人気も高かった豊臣を警戒した家康は、豊臣潰しに動きます。

まず、江戸城の他、近畿一円に、大阪城を囲むように築城を開始しました。
築城には、遠方の豊臣恩顧の大名を当たらせ、
忠誠心を図りながら財力と人力を削がせました。
また、秀頼と母淀殿には、神社仏閣の建築や改修を勧めました。
方広寺の大仏と大仏殿の建設もその一つです。
莫大な豊臣秀吉の遺金を使わせる事が目的です。

5代目という 1/10の大きさの大仏が安置されている 本堂
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淀殿は、神仏の信仰心が篤く、秀吉没後
85件もの神社や仏閣の造営や改修を行いました。
人々の平安と共に、豊臣の繁栄が続くことを願ったと思われます。
それに対して、秀吉との約束を反故にして、豊臣潰しを企てる
家康は、同じ仏でも、浄土宗-阿弥陀様にすがります。

関ヶ原の戦い の時に用いた
旗印の「厭離穢土 欣求浄土」 という言葉も、ここからきており、
穢れたこの世は捨て、来世にて極楽往生できるようにと、
一心不乱に写経をしていたと伝えられます。

方広寺の大仏は、奈良の大仏様より大きいものが 
豊臣秀吉により創建されましたが、十年後に大地震により破壊し、
翌年消失しており、家康の勧めで太閤の追善供養に再興させたのです。

その後も数度、火災や落雷で焼失していますが、
本堂には、消失前の蓮華座の内側のぼつぼつの部分の破片が展示され、
鐘楼には大仏殿の柱の金輪や風鐸が置かれ、往時を偲ぶことができます。

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そして、家康が長生きをしている間に、豊臣恩顧の大名達がこの世を去り
秀忠に将軍の座を譲り 徳川の世の足固めができた
のを機に、いよいよ動きます。

614年に梵鐘が完成し、禅僧文英清韓が起草した銘文に書かれた
国家安康・君臣豊楽 の 文字が不吉である 
と言い掛りをつけ、大坂冬の陣が始まります。

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国家安康は 家康の名前を2つに分断し、
君臣豊楽は 逆から読むと豊臣が君主となると、
難癖をつけた訳です。
家康はこの時、かなりの高齢であり、目の黒いうちに
最後の仕事をしておきたかった訳で、何かキッカケが欲しかったところ、
金地院崇伝がこの鐘の銘文に目をつけ進言したのです。

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老獪な家康の術中にはまり、
大坂冬の陣・夏の陣の敗北により豊臣家は滅亡、
秀頼・淀殿母子は山里廓にて自害。

豊臣滅亡の引き金となった大梵鐘の内部には、白い雲のようなものがあり、
東側のものは人が立っているように見えます。
これは、淀殿の怨念が亡霊となって残っているのだと云われております。

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豊臣を滅亡に陥れた鐘と国家安康の文字は、外からも見えますが、
拝観をするか、柵に取り付けた箱に志納をすると、
間近に見ることができます。



豊国神社の門前に、土盛りがしてある上に塔
が建てられている一角があります。

これは、耳塚といわれ、
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、武将たちが戦果として
敵の首を持ち帰ることができない為、酢漬け・塩漬けにして
持ち帰った耳や鼻を埋葬して供養したお塚です。

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軍奉行はその数を確認して、
武将に「鼻請取状」という証拠の紙を発行しました。

耳は2つあるが鼻は一つしか無いという理由で、
慶長の役では主として鼻が削がれたと云われ、
最初は、鼻塚といわれていましたが、残虐な名前という事で
耳塚に変えられたそうです。


小西行長や加藤清正の命により、将兵の鼻や耳が削がれていましたが、
秀吉軍兵士一人への 戦果のノルマが定められた為、
女・子供を含めた民間人の鼻や耳も削がれ、
桶15杯にもなったと云われます。

日本では人気の高い秀吉も、韓国では未だに 
「嫌いな歴史上の人物」の筆頭にあげられるそうです。

日本人に忘れられた耳塚も、韓国の団体がよくお参りに訪れるそうです。
看板には、ハングル文字での説明も書かれています。

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秀吉が、晩年に残した 朝鮮の役という汚点は、豊臣恩顧の大名の仲を裂き、
結果として、豊臣の滅亡への序章となったのです。






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高台寺と 普茶料理一休庵さんでのランチ [豊臣秀吉・秀頼]

今回の旅は、
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にて回っております。


この鳥居は、東山 霊山護国神社のもので、
東山霊山山麓に霊山観音・高台寺などがあります。 

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法観寺の八坂の塔も望めます。

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そのうち 高台寺は、豊臣秀吉が亡くなった後、
その菩提を弔うために秀吉の妻 北政所―出家して高台院と称す―
が慶長11年(1606)開創した寺です。

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寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山として迎え、
高台寺と号しました。
造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮により、
多大の財政的援助を行なったので
寺観は壮麗をきわめたといわれます。

坂を上ると、先ず 北政所が、日頃崇拝していた
綱敷天満宮の祭神 菅原道真公を勧請して
高台寺の鎮守社とした、高台寺天満宮があります。

高台寺の受付で、チケットを買いに行く時に、庫裡の建物に目が留まります。


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高台寺境内では、開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が
国の重要文化財に指定されており、これらが見て回れます。

灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、鬼瓦席と共に
高台寺を代表する茶席として知られている 遺芳庵です

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庭園は、開山堂東の臥龍池、西の偃月池を持ち、
小堀遠州の作の桃山時代代表する庭園と云われます。
偃月池には、観月台を配し、北に亀島 南に鶴島を造り、
見事な石組を見せています。

観月台は、 書院と開山堂を結ぶ屋根つきの廊
の途中にある小規模な建築です。
ここから北政所は、亡き秀吉を偲びながら月を眺めたと 云われます。

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開山堂は、高台寺中興の祖 三江紹益禅師を祀る塔所です。
中では、ボランティアガイドの方が説明して下さり、
ねねの兄 木下家定とその妻の像や、普請掛として働いた堀直政の木像
が祀られておられるのを、観させて頂きました。
礼堂部中央の彩色天井には、北政所の御所車 前方の格子天井には、
秀吉が使った御舟の天井が用いられています。

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中門
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霊屋(おたまや)は、秀吉と北政所をお祀りしており、
厨子内左右に秀吉と北政所の木造を安置し、
北政所像の下には遺骨も安置されていると ガイドの方が説明して下さいました。
厨子には、高台寺蒔絵と称される 華麗な蒔絵が施されている事でも有名です。

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開山堂と霊屋を結ぶ階段は、龍の背ににているため、臥龍廊と云われます。

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傘亭と時雨亭は、利休の意匠による茶席で伏見から移築されたものです。

傘亭の内部は、竹が放射状に組まれて唐傘を開けたように見える
ためにその名があります。

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傘亭と時雨亭は、土間廊下にて繋がっています。

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北政所は、-関ヶ原の戦い-にて、徳川家康を援護する様な働きをして、
結果的に豊臣家を滅亡に導いてしまったと云われていますが、
家康に付いたお蔭で家康の加護を受ける事が出来た訳で、
高台寺にても 秀吉の供養と 秀吉が花開かせた
桃山文化を残す事ができたのだと 気付かせてくれた散策でした。 




高台寺の表門の  普茶料理 一休庵 さんでランチをしました。

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一休庵を建てるために地を掘っている時に、大黒天の尊像が 
砂の中から出現したと云われています。

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普茶料理は、黄檗宗の寺院などでいただける 中国の精進料理です。

庭園の緑に映える唐様式の朱色の門が 
前から気になっておりましたが、敷居が高そうで
敬遠していましたが、お得な1000円セットに誘われて入ってみました。

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生麩丼と炊き込みご飯のセットに、てんぷらの盛り合わせを2つ頼みました。

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簡単なセットという事で、名物の加茂なすの田楽や胡麻豆腐など、
試食で頂くサイズで、美味しいと思った時には口の中から消えていました。

単品で頼んだ野菜と蕎麦を海苔を巻いたものを揚げものは、
独特の衣に包まれて上品かつボリュームたっぷり!
満足の一品でした。

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帰りにパンフレットも頂きましたし、今度は、コースで頂いてみたいですね。

さて、食後の散歩です。
ねねの道 と云われる小路には、雰囲気の良い料理屋や、旅館、土産物屋が
並び、大運院の祇園閣を望みながら、円山公園に続きます。

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