真如堂のうなづきの阿弥陀さんと黒谷さんの 話題のアフロ仏さん [パワースポット]
吉田山を宗忠神社の方に下りていくと、
正面に真如堂さんの三重塔が見えてきます。
真如堂とは本堂を意味する言葉で、正式名称を真正極楽寺と云います。
阿弥陀如来さまを御本尊とする天台宗の寺院で、
女性を救済する「女人の寺」として知られています。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算(かいさん)上人が、
比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院の離宮
があった 現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。
その阿弥陀如来さまは、
慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿明神で
根元が光るカヤの霊木を見つけられ、それを2つに割って片方で
阿陀如来座像を造立されました。
もう一方の木は、 大師が唐に留学された帰り、荒れ狂う波間に現われ
引声念仏を授けたという 小身の阿弥陀如来を胎内仏に納めた
阿弥陀如来さまを祀りました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が
「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」
と眉間に白毫―仏様の眉間の白く長い毛―を入れ様とすると、
如来は首を振って拒否されたとか。
「それでは都に下って、全ての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」
と言われると、如来がうなづかれたところから、
「うなづきの弥陀さま」とも呼ばれています。
阿弥陀様のお姿は、11月15日の御開帳時のみ拝観でき、
普段は、パンフレットの写真を見ながら解説を聞く形になります。
この日の拝観は、御茶会行事の為、庭園の拝観が叶わず、
本堂のみの拝観となりました。
この時期は、涅槃会として大涅槃図が公開され、涅槃絵図に参拝すると
無病息災に過ごせるという 花供曽(はなくそ)が授与されるそうです。
花供曽は、御本尊に供えられた正月の鏡餅を細かく刻んで軽く焼いて、
黒砂糖を絡めた あられ菓子です。
上品なさっぱりとしたお味で大変かるい食感です。
本堂は、15間四面、ケヤキ造りの単層の入母屋造、本瓦葺の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
内陣は、
金箔を施した天蓋や瓔珞、きらびやかな布製の幡などで荘厳されています。
板の間には大壇があって、様々な仏具が置いてあります。
大多数の仏具や打ち敷き等に付いている「四つ目」は大檀家の三井家の家紋で、
三井家は初代の三井高利氏以来、本家六家が真如堂の檀家です。
内々陣との結界のところには、三井氏寄進の3月には大涅槃図が祀られています。
本堂の天井近くから畳に着く程の大きなものです。
描かれている生類の数は日本の涅槃図の中で最多だそうです。
又、通年、足利義政公寄進の油壺が展示され、後醍醐天皇から拝領した
仏舎利が祀られています。
本来は、三重塔に安置されていたものを皆さんに拝んでもらう為に
本堂に移したそうです。
本堂の廊下はぐるっと一回りできます。
本堂の廊下から三重塔を望む絶景ポイントがあります。
この三重塔は、文化14年の建物ですが、装飾は控えめで古い塔の面影を残す
真如堂のシンボル的な存在感を感じます。
その三重塔の傍らに、殺生石鎌倉地蔵さんがいらっしゃいます。
邪気を放って近くを通る者を死に至らしめ、「殺生石」と呼んで恐れられた石を、
下野国示現寺の玄翁(げんのう)和尚が持っていた杖で石を叩いて
祈願をしたところ、石は割れ、白気を立ち昇らせて西方へ飛び散ったと云います。
そして、その後 祟りは起きなくなったそうです。
江戸時代当初、この像を篤く信仰していた甲良豊後守宗廣の夢の中に
この地蔵尊が現れ、「私を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げ、
豊後守はそれに従って、この地蔵尊を真如堂に遷座したのがその謂れだそうで、
「鎌倉地蔵」の名は、この尊像が当初鎌倉に安置されていた事に由来します。
真如堂墓地を抜けると、金戒光明寺に続いています。
「黒谷さん」と呼ばれる、浄土宗大本山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、
法然上人が比叡山を下り、
平安時代末期に 草庵を結ばれたのがこの寺で、浄土宗最初の寺院 です。
西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所に向けて山門、阿弥陀堂、本堂 など
18もの塔頭寺院と会津藩のお墓が建ち並びます。
ここは、幕末に京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった場所でもあるのです。
そんな金戒光明寺では、近年人気急上昇の話題の仏様がいらっしゃいます。
なんと、こちらのお寺さんには、アフロヘアーの仏さんがおられて、
2-3年前から新聞やテレビで紹介されて、ネット上で大人気という事らしいのです。
ぜひお会いしたいと探してみましたが、御影堂や阿弥陀堂辺りにはお見かけしません。
御影堂でアフロヘアーの仏様のグッズを買いがてら、いらっしゃる場所をお聞きすると、
墓地の方にいらっしゃるとか。
なるほど、はす池から三重塔へ向かって石段を10段位登り始めたところの
左側にいらっしゃいました。
仏様の螺髪(らほつ)がお顔にすっぽり覆い被さる様な大きさ、
正にアフロヘアーです。
正式名称は「五劫思惟阿弥陀仏像(ごこうしゆいあみだぶつ)」と云い、
通常の阿弥陀仏と違い、螺髪が被さる様な非常に大きな髪型が
特徴なのだそうです。
五劫とはとてつもない長い時間のことを云い、
一劫が100年位と言われているので500年位にあたります。
そして思惟は考えるという事です。
『無量寿経』というお経によりますと、阿弥陀仏さまが法蔵菩薩という名で
修行中の時、― 諸々の衆生を救わんと四十八の願を立て、五劫の間、
ただひたすらに思惟をこらし修行をされた―とあります。
五劫思惟の阿弥陀仏はその時のお姿をあらわしたものなです。
このアフロ仏を訪ねる人の中には、薄毛が悩みの方も多いのだそうです。
私もそうですが、覆い被さる程の髪の毛は羨ましい限りですよね。
正式には髪の毛に御利益があるという事は無いそうですが、
頭の上に5円(ご縁)を乗せていく人もいるとか。
お寺では、アフロ仏のこんぺい糖、ステッカー、ストラップも売られています。
ステッカーを買いましたが、髪の毛が生えるお守りとしてでは無いですよ。
そういえば、なんだか他にも境内には、こんもりしたものが目につきますね。
シマモクセイと書かれていました。
アフロ仏様の手前を左手に進むと、浅井三姉妹の末っ子で、
徳川秀忠の正室となった お江の方の供養塔があります。
アフロ仏様の脇の石段を延々と登って行くと、
国の重要文化財の三重塔に辿り着きます。
この塔は、伊丹重好が徳川秀忠公の菩提を弔う為に建立しました。
文殊塔の内部には、文殊菩薩が祀られていましたが、
多くの方に拝んで貰い易い様にと御影堂左脇壇に遷されました。
その文殊菩薩は、運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つとして
信仰を集めています。
三重塔から会津墓地の参道の標識に従って進むと、法然上人の伝説に
登場する紫雲石がある西雲院に着きます。
金戒光明寺の塔頭である西雲院は、紫雲石(しうんせき)という名で知られます。
法然上人が比叡山を下り、この地にて白河石に腰を掛けて念仏を称えると、
にわかに紫色の雲が立ち、芳香が四方に薫じたといわれます。
法然上人は、その半畳ほどの大石を紫雲石と呼び、ここを念仏道場と定めて
一庵を結び紫雲山金戒光明寺と名付けました。
その後、宗厳(そうごん)が金戒光明寺から紫雲石を賜り、そこに庵を結んだのが
西雲院の始まりとなります。
紫雲石は、現在は、境内の念仏堂に祀られています。
西雲院は、
幕末、鳥羽伏見の戦いで敗れた会津藩士の墓を守る寺としても知られます。
会津藩主松平容保が京都守護職に就任し、ここ黒谷に本陣を置き、
新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日の様に
行われていたそうです。
山上墓地北東には約三百坪の敷地に會津藩墓地が有り、
戦いで亡くなられた藩士のみではなく、使役で仕えたと思われる
苗字のない者も、婦人も同様に祀られているそうです。
西雲院の庫裡前には、幕末から明治に活躍した侠客・会津小鉄の墓があります。
会津小鉄は、本名を上阪仙吉(こうさかせんきち)と云い、京都守護となった
会津藩主松平容保の知遇を得て若くして元締めとなりました。
表の稼業は縄張りを治める口入れ屋として、
裏では会津藩や新選組の密偵として
影の協力者として活躍した事から、会津小鉄と呼ばれる様になります。
鳥羽伏見の戦いにて、賊軍の汚名を着せられた会津藩戦死者の遺体は、
後難を恐れ、そのまま鳥羽伏見の路上に放置されるままであったのを、
小鉄は子分二百余名を動員して遺体を探索し収容し近くの寺で荼毘に付し
供養したといわれます。
その後も、小鉄は容保の恩義に報いる為に、黒谷会津墓地を
西雲院住職と共に守って清掃・整備の奉仕を続けたという話が残っている
という事です。
その功績により、西雲院境内に小鉄の墓が建てられたのです。
元の道に戻り、階段を下りてくると、眼下に京都の町の景色が広がります。
平安神宮の朱い鳥居と、京都タワーが同時にカメラに収まるスポットがあります。
境内には、その他にも見応えのある立派な建物が並びます。
阿弥陀堂は、慶長10年に豊臣秀頼により再建された、この寺の諸堂のうち
最も古い建物です。
恵心僧都最終の作と云われる本尊阿弥陀如来が納められています。
如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてある事から
「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されています。
御影堂の内陣正面には法然上人75歳の御影が祀られています。
火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に
細部の注意が凝らされた 昭和時代の模範建築物と云われています。
三門は江戸幕府の命により再建に取掛り、1860年12月に落慶されたものです。
古くは9世定玄上人の時代(1398~1415)に建立されましたが、
応仁の乱にて兵火により焼失した後、約350年後に再建されました。
三門楼閣内壇上には等身座像の釈迦三尊(釈迦・文殊・普賢)と
十六羅漢の像が安置され、門の中央には、後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」
の勅額が掲げられています。 このお寺の顔となる、風格ある建物です。
前回ブログの吉田神社から 黒谷さん迄、見どころ一杯の 散策コースでした。
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2015-03-10
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応援よろしくお願いします
「指ではじくだけで肩の痛みが治る!-江戸の秘術から生まれた凄ワザ」
江戸時代の按摩術が、現代人の症状によく効く事を紹介した本です。
どうぞ 皆様、よろしくお願い申し上げますm(__)m
正面に真如堂さんの三重塔が見えてきます。
真如堂とは本堂を意味する言葉で、正式名称を真正極楽寺と云います。
阿弥陀如来さまを御本尊とする天台宗の寺院で、
女性を救済する「女人の寺」として知られています。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算(かいさん)上人が、
比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院の離宮
があった 現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。
その阿弥陀如来さまは、
慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿明神で
根元が光るカヤの霊木を見つけられ、それを2つに割って片方で
阿陀如来座像を造立されました。
もう一方の木は、 大師が唐に留学された帰り、荒れ狂う波間に現われ
引声念仏を授けたという 小身の阿弥陀如来を胎内仏に納めた
阿弥陀如来さまを祀りました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が
「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」
と眉間に白毫―仏様の眉間の白く長い毛―を入れ様とすると、
如来は首を振って拒否されたとか。
「それでは都に下って、全ての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」
と言われると、如来がうなづかれたところから、
「うなづきの弥陀さま」とも呼ばれています。
阿弥陀様のお姿は、11月15日の御開帳時のみ拝観でき、
普段は、パンフレットの写真を見ながら解説を聞く形になります。
この日の拝観は、御茶会行事の為、庭園の拝観が叶わず、
本堂のみの拝観となりました。
この時期は、涅槃会として大涅槃図が公開され、涅槃絵図に参拝すると
無病息災に過ごせるという 花供曽(はなくそ)が授与されるそうです。
花供曽は、御本尊に供えられた正月の鏡餅を細かく刻んで軽く焼いて、
黒砂糖を絡めた あられ菓子です。
上品なさっぱりとしたお味で大変かるい食感です。
本堂は、15間四面、ケヤキ造りの単層の入母屋造、本瓦葺の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
内陣は、
金箔を施した天蓋や瓔珞、きらびやかな布製の幡などで荘厳されています。
板の間には大壇があって、様々な仏具が置いてあります。
大多数の仏具や打ち敷き等に付いている「四つ目」は大檀家の三井家の家紋で、
三井家は初代の三井高利氏以来、本家六家が真如堂の檀家です。
内々陣との結界のところには、三井氏寄進の3月には大涅槃図が祀られています。
本堂の天井近くから畳に着く程の大きなものです。
描かれている生類の数は日本の涅槃図の中で最多だそうです。
又、通年、足利義政公寄進の油壺が展示され、後醍醐天皇から拝領した
仏舎利が祀られています。
本来は、三重塔に安置されていたものを皆さんに拝んでもらう為に
本堂に移したそうです。
本堂の廊下はぐるっと一回りできます。
本堂の廊下から三重塔を望む絶景ポイントがあります。
この三重塔は、文化14年の建物ですが、装飾は控えめで古い塔の面影を残す
真如堂のシンボル的な存在感を感じます。
その三重塔の傍らに、殺生石鎌倉地蔵さんがいらっしゃいます。
邪気を放って近くを通る者を死に至らしめ、「殺生石」と呼んで恐れられた石を、
下野国示現寺の玄翁(げんのう)和尚が持っていた杖で石を叩いて
祈願をしたところ、石は割れ、白気を立ち昇らせて西方へ飛び散ったと云います。
そして、その後 祟りは起きなくなったそうです。
江戸時代当初、この像を篤く信仰していた甲良豊後守宗廣の夢の中に
この地蔵尊が現れ、「私を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げ、
豊後守はそれに従って、この地蔵尊を真如堂に遷座したのがその謂れだそうで、
「鎌倉地蔵」の名は、この尊像が当初鎌倉に安置されていた事に由来します。
真如堂墓地を抜けると、金戒光明寺に続いています。
「黒谷さん」と呼ばれる、浄土宗大本山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、
法然上人が比叡山を下り、
平安時代末期に 草庵を結ばれたのがこの寺で、浄土宗最初の寺院 です。
西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所に向けて山門、阿弥陀堂、本堂 など
18もの塔頭寺院と会津藩のお墓が建ち並びます。
ここは、幕末に京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった場所でもあるのです。
そんな金戒光明寺では、近年人気急上昇の話題の仏様がいらっしゃいます。
なんと、こちらのお寺さんには、アフロヘアーの仏さんがおられて、
2-3年前から新聞やテレビで紹介されて、ネット上で大人気という事らしいのです。
ぜひお会いしたいと探してみましたが、御影堂や阿弥陀堂辺りにはお見かけしません。
御影堂でアフロヘアーの仏様のグッズを買いがてら、いらっしゃる場所をお聞きすると、
墓地の方にいらっしゃるとか。
なるほど、はす池から三重塔へ向かって石段を10段位登り始めたところの
左側にいらっしゃいました。
仏様の螺髪(らほつ)がお顔にすっぽり覆い被さる様な大きさ、
正にアフロヘアーです。
正式名称は「五劫思惟阿弥陀仏像(ごこうしゆいあみだぶつ)」と云い、
通常の阿弥陀仏と違い、螺髪が被さる様な非常に大きな髪型が
特徴なのだそうです。
五劫とはとてつもない長い時間のことを云い、
一劫が100年位と言われているので500年位にあたります。
そして思惟は考えるという事です。
『無量寿経』というお経によりますと、阿弥陀仏さまが法蔵菩薩という名で
修行中の時、― 諸々の衆生を救わんと四十八の願を立て、五劫の間、
ただひたすらに思惟をこらし修行をされた―とあります。
五劫思惟の阿弥陀仏はその時のお姿をあらわしたものなです。
このアフロ仏を訪ねる人の中には、薄毛が悩みの方も多いのだそうです。
私もそうですが、覆い被さる程の髪の毛は羨ましい限りですよね。
正式には髪の毛に御利益があるという事は無いそうですが、
頭の上に5円(ご縁)を乗せていく人もいるとか。
お寺では、アフロ仏のこんぺい糖、ステッカー、ストラップも売られています。
ステッカーを買いましたが、髪の毛が生えるお守りとしてでは無いですよ。
そういえば、なんだか他にも境内には、こんもりしたものが目につきますね。
シマモクセイと書かれていました。
アフロ仏様の手前を左手に進むと、浅井三姉妹の末っ子で、
徳川秀忠の正室となった お江の方の供養塔があります。
アフロ仏様の脇の石段を延々と登って行くと、
国の重要文化財の三重塔に辿り着きます。
この塔は、伊丹重好が徳川秀忠公の菩提を弔う為に建立しました。
文殊塔の内部には、文殊菩薩が祀られていましたが、
多くの方に拝んで貰い易い様にと御影堂左脇壇に遷されました。
その文殊菩薩は、運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つとして
信仰を集めています。
三重塔から会津墓地の参道の標識に従って進むと、法然上人の伝説に
登場する紫雲石がある西雲院に着きます。
金戒光明寺の塔頭である西雲院は、紫雲石(しうんせき)という名で知られます。
法然上人が比叡山を下り、この地にて白河石に腰を掛けて念仏を称えると、
にわかに紫色の雲が立ち、芳香が四方に薫じたといわれます。
法然上人は、その半畳ほどの大石を紫雲石と呼び、ここを念仏道場と定めて
一庵を結び紫雲山金戒光明寺と名付けました。
その後、宗厳(そうごん)が金戒光明寺から紫雲石を賜り、そこに庵を結んだのが
西雲院の始まりとなります。
紫雲石は、現在は、境内の念仏堂に祀られています。
西雲院は、
幕末、鳥羽伏見の戦いで敗れた会津藩士の墓を守る寺としても知られます。
会津藩主松平容保が京都守護職に就任し、ここ黒谷に本陣を置き、
新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日の様に
行われていたそうです。
山上墓地北東には約三百坪の敷地に會津藩墓地が有り、
戦いで亡くなられた藩士のみではなく、使役で仕えたと思われる
苗字のない者も、婦人も同様に祀られているそうです。
西雲院の庫裡前には、幕末から明治に活躍した侠客・会津小鉄の墓があります。
会津小鉄は、本名を上阪仙吉(こうさかせんきち)と云い、京都守護となった
会津藩主松平容保の知遇を得て若くして元締めとなりました。
表の稼業は縄張りを治める口入れ屋として、
裏では会津藩や新選組の密偵として
影の協力者として活躍した事から、会津小鉄と呼ばれる様になります。
鳥羽伏見の戦いにて、賊軍の汚名を着せられた会津藩戦死者の遺体は、
後難を恐れ、そのまま鳥羽伏見の路上に放置されるままであったのを、
小鉄は子分二百余名を動員して遺体を探索し収容し近くの寺で荼毘に付し
供養したといわれます。
その後も、小鉄は容保の恩義に報いる為に、黒谷会津墓地を
西雲院住職と共に守って清掃・整備の奉仕を続けたという話が残っている
という事です。
その功績により、西雲院境内に小鉄の墓が建てられたのです。
元の道に戻り、階段を下りてくると、眼下に京都の町の景色が広がります。
平安神宮の朱い鳥居と、京都タワーが同時にカメラに収まるスポットがあります。
境内には、その他にも見応えのある立派な建物が並びます。
阿弥陀堂は、慶長10年に豊臣秀頼により再建された、この寺の諸堂のうち
最も古い建物です。
恵心僧都最終の作と云われる本尊阿弥陀如来が納められています。
如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてある事から
「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されています。
御影堂の内陣正面には法然上人75歳の御影が祀られています。
火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に
細部の注意が凝らされた 昭和時代の模範建築物と云われています。
三門は江戸幕府の命により再建に取掛り、1860年12月に落慶されたものです。
古くは9世定玄上人の時代(1398~1415)に建立されましたが、
応仁の乱にて兵火により焼失した後、約350年後に再建されました。
三門楼閣内壇上には等身座像の釈迦三尊(釈迦・文殊・普賢)と
十六羅漢の像が安置され、門の中央には、後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」
の勅額が掲げられています。 このお寺の顔となる、風格ある建物です。
前回ブログの吉田神社から 黒谷さん迄、見どころ一杯の 散策コースでした。
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指ではじくだけで肩の痛みが治る!―江戸の秘術から生まれた凄ワザ
- 作者: 福富章
- 出版社/メーカー: 自由国民社
- 発売日: 2015/12/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)