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石田三成 出生の地 [戦国]

石田三成は、石田正継の三男として石田村に生まれ、幼名を佐吉と言いました。
佐吉少年は、横山の観音寺で学問修行中に、この地に立ち寄った 
長浜城主 羽柴秀吉公と出会い、
〝三献の茶〟の縁で 秀吉公に使える様になったと言われます。

長浜市石田町には、三成公の屋敷跡、産湯の井戸が残り、
氏神の八幡神社の裏手 石田神社に供養塔が祀られ、
三成自筆の和歌や辞世の歌の歌碑が建てられています。

石田 には、バスで行くには 長浜から入る他、本数は少ないものの
湖国バスが JR東海道本線 近江長岡駅から長浜行き
が あった為、こちらより 入りました。
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三成公が産湯をつかったと言われる井戸が、路地裏に残ります。

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バス停から少し歩くと、三成屋敷跡に到着です。

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屋敷の面積は150㌃で、周囲は堀に囲まれ、堀端と呼ばれる屋敷堀があります。

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敷地内には、石田会館が建てられ、
三成公の頭蓋骨の写真・絵巻・文書が展示されていますが、
会館の方によると、合戦の敗者ゆえに、徳川の世では
名前は抹殺されやゆかりの品は破棄された為、
殆んど残されていないそうです。

合戦後の石田村では、江戸末期まで、毎年の宗門改めの際に
 「石田残党これなく候」と、井伊家に誓約させられており、
井伊家も、佐和山から離れたところに城を築き、
城下から徹底的に 石田色を消していた様です。

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石田神社内にある 三成 辞世の歌碑
『筑摩江や 芦間にともすかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

三成の〝関ヶ原の戦い〟の敗因は、よく 
横柄な態度と人の失敗・行動を叱責する等、
三成の人物、性格に問題があり、人心掌握ができず、
武断派をはじめとする 敵が多かった事が指摘されているが、
反面、直江・大谷・平塚・佐竹をはじめとする 親三成の大名も多く、
その絆は強固だった事から考え、太閤殿下の政権の維持・安定の為に働き、
晩年の強引な朝鮮出兵、奇行が目だった秀吉の補佐をし、
その行いの責任を被った事による 誤解がマイナスとなった様に思われます。

諸大名に裏切り工作を仕掛けて 関ヶ原の戦いに勝利し、
秀頼公を頼むと故秀吉公と交わした約束を反故にして、
様々な老獪な策を用い 天下を取った家康に比べ、
三成は、不器用であるが私欲を捨て 
豊臣の恩に真直ぐで ぶれる事が無かった事に 潔さを感じ、
近年 人気が出ている様です。

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全国の三成公敬慕者の浄財で 390回忌に建立された三成像。

大徳寺三玄院に葬られている遺骸と、青森 杉山家に伝わる肖像画を参考にして、
高岡市の彫塑家 喜多敏勝氏が製作したものだそうです。







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