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京都の表玄関―西本願寺と東本願寺をその歴史を考えながら御参りする [三英傑 パワースポット]

龍谷大学に通っていた私にとって、
西本願寺さんは キャンパスに隣接しており、
一番なじみの深かった寺であり、
お寺巡りをする私の原点でもあります。

そんな、話題で会話をしていると、私が仏教に〝詳しい〟
と誤解される様で、
「何故 西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)に別れたのかな?」 
「この二つは何が違うのかな?」
等 との質問を 会話の中にて よく受けます。

私は仏教学・真宗学を学んだわけでも 僧侶ではないので、
教えの違い、作法や行事、お経のあげ方などは全く分からないので、
一応歴史を学んだ者の観点から 解説してみますね。

東本願寺も西本願寺も元々は一つで、親鸞聖人が開祖の浄土真宗の総本山なのです。

本願寺は、蓮如上人が第八世の門主になってから教線を拡大し、
十一世法主・本願寺顕如が大阪に石山本願寺を構えていた時、
その退去を要求した信長との戦い(石山合戦)が起り、
11年の持久戦の末、信長に屈する形で 和議が画策されました。

顕如は信長との和議に応じましたが、長男の教如は、徹底抗戦を主張します。

顕如は、この時より教如との間に溝ができ、信長の死後、後継者として力を持った
豊臣秀吉の支持を受けた三男准如を 跡継ぎにします。

准如は秀吉から現在の西本願寺のある土地を与えられ、第十二世の伝統を継承しました。

以後、教如上人は隠居して裏方と呼ばれましたが、【関ヶ原の戦い】に勝利した
家康は、教如上人に本願寺の東側に寺領を与えます。
教如上人は慶長8年、この地に移り、東本願寺が造られます。

この様にして、本願寺は東西に分かれたのですが、
信長が どの大名よりも
本願寺に手を焼いた事を踏まえて、
家康が -勢力を分断する為に東西に分けた- 
と考えるのが自然の様に思います。

この歴史的背景を知ったうえで、この二つの寺を参拝すると 
尚 一層興味深くなりますよ。

即ち、
西本願寺には、秀吉の色彩が色濃く、
安土桃山文化の遺構が多く残されています。
絢爛豪華と侘びさびの両極の建物、広間が残りますが、
曲線的な優雅さが漂います。


東本願寺は、江戸期以降の建物や文化で、江戸期の特徴である大きく、
荘厳で直線的な建物が並びます。
内部も、絢爛豪華と云うよりは 金ぴかで新しい感じがあります。

幕末には、西本願寺が勤王に対して、東本願寺は佐幕に動いています。
徳川家康によって創建され、徳川幕府に縁の深かった所縁といえます。

石山戦争の時に、毛利輝元は本願寺を支援しています。
それより、長州と西本願寺の結ぶ月は続き、
幕末、西本願寺は、別邸・翠紅館を尊攘派の志士の密談所として提供する、
【蛤御門の変】の際長州藩邸よりの避難者を
受け入れる等の支援をしています。

今回、家人が 
「西本願寺と東本願寺のどちらもお参りした事が無い」
と言うので、行ってきました。
私も、用事や研修の合間に、ちょくちょくお参りはさせてもらっていますが、
じっくりと観てまわるのは、何十年ぶりです。

東本願寺は、正式には 真宗本廟と云い、烏丸通りに面して建てられています。
世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする 現在の堂宇は
四度の火災により焼失し、明治28年(1895)に再建されたものです。

建築物は時代が新しい為、国宝や重要文化財に指定されているものはなく、
西本願寺と異なり 世界遺産の認定からも外れています。

阿弥陀堂門・御影堂、より 境内に入ります。

阿弥陀堂門
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御影堂門
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先ず、手を洗い清めます。
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本願寺の境内の中心となる建物は、阿弥陀如来をお祀りする阿弥陀堂と
親鸞聖人の絵像・木像・名号を安置する御影堂からなります。
 
伽藍配置は南北が逆になっており、
東本願寺は北に御影堂、西は南に御影堂があります。

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東本願寺の御影堂は、繊維市の木造建築で、
上がらせて頂くと その大きさに驚きます。

御影堂の大きさは、927畳あるらしいのですが、畳の向きも、伽藍配置同様 
西本願寺は南北方向であるに対して、東本願寺は東西方向で、
柱も、西本願寺が角柱を使っているのに対して、東は丸柱を使う
等の違いがあります。

後で築いた徳川の息のかかった東本願寺が、豊臣色の強い西本願寺とは
わざと真反対にしたかの様に 思えます。

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堂内は、「内陣」・「外陣」・「参拝席」に分かれており、
7室ある内陣の中央の間を「内陣本間」と呼び、その中央に須弥壇上を設け、
その上に「御厨子」を置き「御真影」(親鸞の坐像)を安置します。

阿弥陀堂門の先には、阿弥陀堂がありますが、阿弥陀堂御修復工事の為 
閉鎖され、
御本尊阿弥陀如来像は御影堂内の仮阿弥陀堂にて御安置されているそうです。

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参拝の後は冷房の効いた休憩所で、
東本願寺バージョンのお茶のペットボトルでちょっと一服

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次に、堀川通りに面した龍谷山西本願寺に向かいます。
正式名称は、「久遠実成阿弥陀本願寺」と云います

御影堂門・阿弥陀堂門から入ると、
右手(北側)が阿弥陀堂で、左手(南側)が御影堂です。
先に書いたように、東本願寺とは逆方向の配置です。

御影堂は、祖師堂とも云い、信仰の中心となる大切なお堂です。
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700畳の大きさがあり、畳の向きは南北方向に横向きに敷かれています。

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宗祖親鸞聖人人の骨肉の木像が安置されています。
骨肉像とは人骨や人灰を漆などに溶かして混ぜ木像の像に塗った物です。

単層入母屋造本瓦葺の建築物で、寛永十三年に建てられた物で重要文化財に
指定されています。

平成11年1月16日より平成21年3月31日にかけて、御影堂の大修復が行われました。


阿弥陀堂 は、阿弥陀如来を御祀りしてあり、
聖徳大師と法然上人の画像も御祀りしてあります。
宝暦十年(1760年)の建造物で重要文化財に指定されています。

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境内には天然記念物 大銀杏があります。
低い位置から平枝や斜め上枝を出し、まるで根っこを天に広げた様な形から
「逆さ銀杏」とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏は、
京都市の天然記念物に指定されています。
本願寺に火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めた 
と云う伝説から、「水吹き銀杏」とも呼ばれています。

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境内東南隅の鐘楼にある竜頭が木の釣鐘は、
もともと太秦広隆寺に伝わる古器で
藤原通憲入道信西の銘がある立派なもので、国宝に指定されています。
音色は、黄鐘調と云われ、何故か竜頭だけが木製であるのが特徴です。
これは、京の七不思議の一つと云われ、広隆寺に吊られていた この鐘が
底無しの池に沈んでしまい、釣り上げ様とした時に竜頭が外れて
竜頭だけが持ち去られたと云う伝説が―残っているそうです。

この他にも、西本願寺には、
境内に十七、飛雲閣に十一、合せて二十八もの
不思議が有ると云われています。

境内には、〈本願寺のみどころ〉という立て看板が立ち、
そのうちの幾つかが紹介されています。

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縁側や廊下の埋め木
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その他には、御影堂門左手の塀の中に、薩摩藩が石垣を解体して
持ち帰った際、一つだけ見残したものと云う 見残石があります。


本願寺の東北角にある重層の楼閣で、内部に今も残る大きな太鼓は、
江戸時代には周囲に時刻を告げたり、法要の合図となっていました。
幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、
今も残っていると伝えられえています。

非公開の文化財を除くと、
最もお勧めの見所と云うと、国宝の唐門(勅使門)が挙げられます。
唐門は、境内の南側の 北小路通りに面していて、
この通りからゆっくりと眺められます。

唐門は北小路通りを境に 
龍谷大学大宮学舎と隣接している為、私的にはこちら側からの
唐門がなじみが深いのです。

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実は、京都に宿泊した翌早朝に この通りを散歩しながら唐門を目指していると、
ビリピリビリと云った刺さる様な気を 顔や腕など肌が出ている所に感じました。

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私だけでなく、同行していた友人二人も同じ様な感覚を感じたそうです。

唐門は 唐破風の四脚門で、桃山時代の代表的な建築物で 
伏見城の遺構と云われます。
秀吉色の濃い西本願寺ならではの豪華な建築物で、金色の金具と繊細な彫刻が施され、
細かく見ると日が暮れてしまう事から「日暮門」といわれています。

門の彫刻には、空想上の動物、麒麟が描かれており、キリンビールのロゴの原画となって
いるとか。
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破風に刻まれている鶴は左甚五郎作と伝わり、夜な夜な飛んで鳴くので、
首を切り落としたと云われます。

唐門は書院(対面所)への正門です。

寛永年間に整備された、桃山・江戸初期の書院造りの代表作で、
現在でも西本願寺の接待などで使われているそうです。
特に鴻の間は203畳の大広間で非常に豪華な書院造です。

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大書院 ・白書院・黒書院・北能舞台などの美術、
建築では史上有名な国宝建築物の宝庫で、
黒書院を除く建物は伏見城遺構を移したと云われ、
桃山時代の豪華な文化を伝えています。

大玄関
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旧仏飯所
かつて、両堂に供えられる御仏飯の炊事をしていた建物
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私は、龍谷大学の史学科に在籍していた時に、
史学科の西本願寺国宝の特別拝観により、
国宝飛雲閣と共にこれらを見せて頂きました。
普段は、残念ながら非公開です。

飛雲閣
金閣、銀閣と共に京都三名閣の一つ。

豊臣秀吉の建てた聚楽第の一部と伝えられる。

3層からなる楼閣建築ですが、中心がズレながら唐破風や
入母屋の屋根を配置し、左右非対称の美しさを見せています。

本来は船で1階の舟入の間より出入りしており、飛雲閣を見せて頂けた時、
この舟入の間が一番印象に残っています。

2階は歌仙の間と呼ばれ、三十六歌仙が障子に描かれている。

3階は星をつかむ事ができる位 高いと言う事で摘星楼と呼ばれています。

摘星楼の床の間の張付に描かれた富士山の図は、狩野元信筆と伝える金泥図で、
立って眺めると富士山の全容は見えないが、座って図を徐々に仰ぎ見ると
富士山の全容を見る事ができ、これが おじぎ富士、行儀の富士と云われる所以です。
因みに、この図の下描かれている松は、これは豊臣秀吉が悪戯で書き加えたものと云う。


飛雲閣初層の瀟湘の間にある狩野探幽と徳力善雪の合作の図は、見え隠れの月
と云われる 瀟湘八景を描いたもので、正面から眺めると 月が見えないが、
斜めからは明月が雲間に輝いているのが見えると云う。

飛雲閣の楼閣の場合、住宅と茶室が組み合わされた建築物で、
豊臣秀吉遺愛の茶室 憶昔(いくじゃく)の間や浴場「黄鶴台」が在ります。 

「黄鶴台」は、蒸風呂と湯釜と水槽が在ります。

10畳ほどの板張りで、布を敷いて座るようになっていました。
隅に唐破風付きの蒸し風呂があり、床板のすき間から蒸気が出る
仕組みになっています。

秀吉の体が小さい為に、
その布の敷物で体をすっかり包んでしまえた事柄から、
品物を包む布を ―風呂敷― と言う様に成った
と伝えられています。

この様に、西本願寺には、秀吉との関わりが深く、
桃山文化が凝縮されております。


西本願寺に隣接する龍谷大学は、もともと本願寺の教授所として
設立されたもので、
明治初期に建設された本館はコロニアル風様式の
二階建ての洒落た建物で、国の重要文化財に指定されています。

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擬洋風建築と云われるのは、外観上は石柱が立ち並んでいますが、
実は木造で、石材を柱に張り付ける形が取られています。

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ここでは、仏式の結婚式が挙げる事が出来、
学生時代に一度だけ その光景に出合いました。

その他にも、校舎である南黌・北黌、正門、旧守衛所なども
国の文化財に指定されており、
ドラマのロケにも多く使われています。

南黌・北黌は、私も 大学の講義を実際に ここで受けていた所です。
ここは、私が、龍大キャンパスで一番好きな建物です。

仏教・真宗・仏教史関係の講義はここで受ける事が多かった様に記憶しています。

新聞の連載小説「親鸞」を執筆された 五木寛之先生が、執筆が決まってから、
龍谷大学で仏教史・真宗史関係の講義を聴講されており北黌で行われていた
講義でお見かけしたのを覚えております。

あの長編小説は、あの頃から 長年に亘り しっかりと研究されたうえに
執筆されたものだと思うと、感慨深いものがあります。

白亜の美しい壁とアーチ型に連なるヨーロッパ調の窓が印象的な北黌は、
同じ意匠の南黌と対をなしている優雅な建築物です。
本館と同じ1879(明治12 )年に竣工された歴史的な建物で、夜にはライトアップされ、
白亜の壁が幻想的に輝きます。

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昔は守衛所として利用されていましたが、
現在は龍谷大学のオリジナルグッズを展示する空間となっています。
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西本願寺さんから 東の小路には、仏具・念珠・法衣などのお店が並びます。
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そんな一角に本願寺伝道院の建物がそびえます。
この辺りは、本願寺と共に歩んできた町である事が実感できるエリアです。

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最後に、今回は時間の都合で買い求める事が出来ませんでしたが、
西本願寺前、七条堀川の角にある
-亀屋陸奥さん-の 本願寺ゆかりの銘菓 松風 は
私の一押しのお土産です。

石山本願寺合戦のさなか、
亀屋さんの三代目が創製した品が兵糧の代わりとなり、
信長と和睦の後に顕如上人が
わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風
と詠まれた歌から 名付けられたそうです。

小麦粉、砂糖、麦芽飴 そして白味噌を混ぜ合せて自然発酵させて
出来上がった生地を 表面にケシの実を振りかけて焼き上げたもので、
硬めのカステラ と云った食感と芥子の実と白味噌が焦げた香ばしさ
が何ともいえず 絶品です。

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