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秀吉が信長の供養の地に選んだ大徳寺・船岡山 [戦国]

織田信長が、本能寺の変にて明智光秀の謀反により倒れると、
天正十年(1582年)10月に、
秀吉により大徳寺にて信長の葬儀が執り行われました。

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お布施や葬儀の費用は一万貫、法要は、17日にも及んだ と云われます。
本能寺の変で、信長の遺骸が発見されなかった為、
秀吉は信長の木像を2体造って、1体を火葬し菩提寺として新たに建立した
大徳寺総見院に埋め、もう一体を本堂に安置したのだそうです。
火葬の際には、信長像が彫られた沈香という香木の香りが都に漂ったそうです。

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法要の際の葬送のパレードが行われた際に、その
信長の木像が納められた金紗金襴の棺は、
金銀をちりばめた輿に乗せ、棺の前後には揃いの装束に身を包んだ
三千人の行列が連なった壮麗なものだったと云われます。
このパレードで、輿の轅(ながえ)を持ったのは、池田輝政と
名目上の喪主とされた 秀吉の養子となっていた信長四男の秀勝、
そして信長の位牌は秀吉が持ったと云われます。

秀吉は、信長の葬儀を取り仕切る事で、信長の後継者は自分である
事を 世間に認知させようとした様です。

秀吉が信長公の追善供養の為に作った菩提寺が大徳寺山内にあります。
総見院という塔頭で、訪れた時にはちょうど特別公開中でした。

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総見院受付
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寺名は、
信長の戒名である「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」に由来しています。
創建当時は、隆盛を極めましたが、明治初期の廃仏毀釈にて
堂塔伽藍や多くの宝物が灰塵と化し、正門と土塀が
秀吉創建当時のままの姿で残っています。

土塀は、親子塀という 塀の内部に塀がもうひとつ設けられる
という珍しい構造となっています。
非常時に、塀の中の空洞に武士が隠れる為に作られたとも云われています。
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鐘楼も鐘と共に創建当時のままに残され、重要文化財に指定されています。
信長に謀反を起こした明智光秀との-山崎の合戦-で軍功をあげた
堀秀政が信長公の供養のために寄進したものです。
鐘の銘文は、総見院の開祖古渓宗陳和尚の作と云われています

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特別公開時には、本堂に上がって織田信長坐像が拝めます。
本堂中央には、千利休の禅の師であり、
総見院の開祖である古渓宗陳が祀られています。

その左側に、衣冠帯刀の織田信長木像が祀られています。
運慶快慶の流れをくむ仏師康清により作られましたが、
康清は晩年の信長に謁見しており、
等身大の坐像は 晩年の信長の面影をよく伝えているそうです。
教科書でよく見る信長画像と違い、生き生きとした眼が印象に残ります。

信長坐像が祀られている 総見院 本堂
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井筒の部分が大きな朝鮮石で彫り抜かれた珍しい井戸があります。
この石は加藤清正が朝鮮出兵の際、朝鮮から持ち帰ったものと云われます。
朝鮮へ行くときの船は、兵士や武器・物資で埋め尽くされていましたが、
帰りには物資を使い果たし兵士を失って軽くなるので、
舟の安定の重しのために大きな石を積んだと云われます。

この井戸は、深さ10m以上あり 今なお水が湧いているのです。
覗くと、きれいな水に自分の顔を映せるほどです。
毎朝一番の水はここから汲み上げてお供えされ、
茶会の時のお茶を入れる時にも使われているそうです。

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境内の墓地には、信長をはじめ 一族の墓がずらりと並びます。
信長のお墓や供養塔は全国に23か所あります。
本能寺の変で亡くなられた際に、ご遺骸が無かったので
信長公のゆかりの場所に供養のためのお墓が作られました。
中でも、正親町(おうぎまち)天皇の勅許を受けたこの墓は
〝公認の墓〟と言えるのだそうです。

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信長の他にも、長男の信忠、次男の信雄、正室の濃姫、側室のお鍋の方、
息女の徳姫など、信長一族七基の五輪塔やお墓が並びます。

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秀吉が造らせた信長の木像のもう一体は、
船岡山麓に天正寺という菩提寺を造ってお祀りするつもりだったようです。
それは、大徳寺と船岡山を結ぶ長廊下をもつくるという壮大な計画でした。

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正親町天皇より、天正の寺号を賜り
大徳寺の古渓禅師を開山とし竣工が始まりましたが、
石田三成により取りやめにされました。

信長公の後継者の地位と権力を示すには、秀吉の手による
信長公の葬儀や菩提寺建立をすることが有効でしたが、
その目的を果たし、確固たる地位を築いた後は、
必要なくなったようです。

以後 船岡山は、信長公の霊地として大切に保護されていたのを、
明治2年に明治天皇により 信長公の遺徳に対して神社創立の宣下があり、
建勲神社の神号を賜り 社殿をつくり、後に信忠公を配祀し、
中腹の地から現在の山頂に社殿が移されました。

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建勲神社は、それ以後、
「けんくんさん」として親しまれ、大願成就、開運、難関突破、
災難除けの神として崇拝されています。

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ところで、船岡山はもともとパワースポットであったようです。
平安遷都の際は、風水思想による立地条件に合った土地が探されましたが、
船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成されました。
すなわち、船岡山からの直線の延長線上に大極殿、さらにメインストリートとして
朱雀大路が造られたと云われています。

境内には、船岡山の地の神をまつる船岡妙見社があります。
妙見とは、北極星の意味で玄武の象徴と云われます。

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船岡山は京からみて、北極星の方向に当たり、秀吉はそこに信長を祀ろうとした
―なんだか、家康を祀った日光東照宮が江戸から見て北極星の方向であった―
という話と酷似していて 興味深いですね。

秀吉の信長の後継者として 天下を取ろうとする意気込みが
見て取れるような気がするのです。






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