「五猿」が護る 光秀ゆかりの西教寺 [戦国・パワースポット]
明智光秀は、一般には織田信長に反旗を翻した 謀反人でありますが、
ここ、比叡山坂本の地では、名君であり英雄です。
元亀2年織田信長の比叡山焼き討ちの際、坂本の地も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。
光秀は西教寺の檀徒となり、この寺の復興に大きく力を注ぎました。
天正年間に、大本坊を再建されたときの、「天正年中明智公所造古木」
など、この寺には、その頃の名残があちこちに見られます。
総門は坂本城の城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。
天正10年に、天王山にて敗れた光秀は、6年前に亡くなった正室熙子や一族と
とともに眠っておられます。
客殿を拝観すると、光秀や明智家ゆかりのお宝が拝観できます。
西教寺と刻まれた石碑が建つかたわらに、総門が建っています。
堂々として風格があり、瓦にある「大窪山」の号は、
聖徳太子から賜った山号ともいわれます。
また、西教寺の号は天智天皇より賜ったとか。いずれにしても、謂れのある
古刹にはまちがいありません。
勅使門
この総門は坂本城の一つとされ、正面から左右に袖のように直角に控柱が出て、
の上に屋根がのる高麗門に近い形式をとっています。
総門をくぐると一直線に延びる参道が見事で、塔頭が両側に並んで地方の信者の
宿泊所となっていますが、普段は静寂に包まれています。
桜や紅葉のシーズンには、参道をトンネルのように覆うとか。
急な石段を登ると、いよいよ伽藍の並ぶ境内が広がります。
祖師大師殿参道
祖師大師殿
西教寺は天台真盛派の総本山で、不断念仏の道場として、文明18年(1486)に、
真盛上人が入寺して再興させ、不断念仏の道場としました。
しばし隆盛を誇っていたが、信長の焼討ちにより、46に及ぶ殿舎僧房も焼失し、
廃墟と化しました。
坂本城を築いた明智光秀は、西教寺の檀家となって町の再興に乗り出し、
本坊・他を寄進し保護し、菩提寺としました。現在の伽藍はそののち、
近世に再興されたものだそうです。
国重要文化財の本堂は、2.8mの阿弥陀如来坐像(重文)を安置しています。
元文4年(1739)建立、総ケヤキ、入母屋造、本瓦葺入母屋造、本瓦葺の
豪壮な建物です。
ケヤキの用材は紀州徳川家、時の徳川吉宗公から寄進されたものです。
特に正面の欄間(十六羅漢)や須弥壇(籠刻)はすべてケヤキの素木造りで
豪華な彫刻を織りまぜ、江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています
貞盛上人の教えをひたすら守られているため、本堂からは今も不断念仏の
鉦(かね)の音が絶えないそうです。
本堂の外陣に東側には十六羅漢の一つ賓頭盧像(びんずるぞう)、
西側に猿の常念仏姿の木像があります。撞木(しゅもく)をもって鉦(かね)をたたく
手白の猿です。
叡山では、西教寺を復興した貞盛上人の出現を心良からず思っている者たちが、
日吉社を襲った土一揆の首謀者を貞盛上人に仕立て上げ、明応2年(1493)の早朝に
僧兵を使って、真盛上人を追い出そうと謀りました。
その時、越前に逃げていた貞盛上人にかわり、本堂で「手白の猿」が不断念仏の鉦を
叩いていたという伝説が残ります。
日吉山王の使者である猿までもが上人の不断念仏の教化を受け念仏を唱えている
事を目の当たりにした僧兵はその場を立ち去ったといわれます。
このときの猿の手が白かったことから「手白のましら(猿)伝説」といい、
その後、寺を護る猿として「護猿[ござる]」となり、縁がござる、福がござると
親しまれています。
寺では、ごえんと呼んで「五猿」と書きますので、本堂の猿の木像を撫でて、
よい護猿(ごえん)をいただいてください。
客殿は、国重要文化財で、本堂から廊下で繋がっています。
天正17年(1589)の建立のこけら葺の立派な書院造の建物で、
桃山御殿と言われています。
もとは豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、大谷刑部吉隆の母・山中長俊守内室が
寄進したもといわれています。
客殿は、上座の間を最高に、東から北へ並ぶ花鳥・賢人・猿喉(えんこう)
・鶴の間と続き、二列に配置された室にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれ、
とくに、上座の間の床・棚は古式を遺して障壁画も完備した非常に優秀な建築で、
貴重な桃山時代の様式を今に伝える建物です。
賢人の間の内仏は京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来座像(重文)です。
この建物には柱や長押などに裂け目や接いだ痕が見られることも、
その時代を感じさせられますね。
内部はガラス越しに拝観できますが、撮影は不可となっています。
狩野永徳の肉筆によるものと言われる襖絵、壁、腰障子など、
お宝が並びます。
今でこそ、色は褪せてはおりますが、桃山時代当時の美しさは
言葉で言い表せないほどだったでしょう。
書院の前庭は50坪程ですが、生垣、庭門、石橋、石籠などがあって、
鑑賞式枯山水の美を見せています。
桃山時代当時の裏山の斜面を比叡の山並みに、中央の池泉を琵琶湖に見立て、
中央には出島や岩島を配した蓬莱石組みの美しい庭園です。
裏山の急傾斜の山畔部を巧みに利用し、丸刈角刈の小刈込を駆使しております。
中央の池泉は琵琶の姿を取り入れた瓢型で、山畔の下部と池泉との間に小丘坡を築いた
二つの石組で構成されています。
初夏の新緑、さつきの咲く頃、秋たけなわの紅葉、冬の雪景色等は特に素晴らしい眺め
となるそうです。
阿弥陀二十五菩薩石像が、書院庭園を望む廊下に奉遷供養されています。
天正12年(1588)幼くして亡くなった娘の往生浄土を願って、富田民部之進が
建立したと伝えられます。各々の菩薩は、それぞれの手にちがう楽器を持っています。
臨終に当たって阿弥陀仏が、二十五菩薩を従えて音楽を奏し、来迎されるという教え
に基づいてつくられたものです。
中世以降庶民信仰の隆盛とともに、身の廻りの石材を使って自ら仏を刻み、
大量の石仏が作られたのだそうです。
明智光秀の糟糠の妻として有名な妻木煕子の墓がひっそりと建ちます。
細川ガラシャの母親にあたり、1576年、本能寺の変の6年前に亡くなっています。
大本坊
約150人が宿泊できる施設です。本坊とは庫裏のことをいいます。
当初は、明智光秀から坂本城の陣屋を寄進されたものでした。
現建物は昭和33年に完成した、昭和の木造建築としては県下で
最大のものだそうです。
戦国ファンは、ぜひ訪れてほしいスポットです。
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ここ、比叡山坂本の地では、名君であり英雄です。
元亀2年織田信長の比叡山焼き討ちの際、坂本の地も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。
光秀は西教寺の檀徒となり、この寺の復興に大きく力を注ぎました。
天正年間に、大本坊を再建されたときの、「天正年中明智公所造古木」
など、この寺には、その頃の名残があちこちに見られます。
総門は坂本城の城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。
天正10年に、天王山にて敗れた光秀は、6年前に亡くなった正室熙子や一族と
とともに眠っておられます。
客殿を拝観すると、光秀や明智家ゆかりのお宝が拝観できます。
西教寺と刻まれた石碑が建つかたわらに、総門が建っています。
堂々として風格があり、瓦にある「大窪山」の号は、
聖徳太子から賜った山号ともいわれます。
また、西教寺の号は天智天皇より賜ったとか。いずれにしても、謂れのある
古刹にはまちがいありません。
勅使門
この総門は坂本城の一つとされ、正面から左右に袖のように直角に控柱が出て、
の上に屋根がのる高麗門に近い形式をとっています。
総門をくぐると一直線に延びる参道が見事で、塔頭が両側に並んで地方の信者の
宿泊所となっていますが、普段は静寂に包まれています。
桜や紅葉のシーズンには、参道をトンネルのように覆うとか。
急な石段を登ると、いよいよ伽藍の並ぶ境内が広がります。
祖師大師殿参道
祖師大師殿
西教寺は天台真盛派の総本山で、不断念仏の道場として、文明18年(1486)に、
真盛上人が入寺して再興させ、不断念仏の道場としました。
しばし隆盛を誇っていたが、信長の焼討ちにより、46に及ぶ殿舎僧房も焼失し、
廃墟と化しました。
坂本城を築いた明智光秀は、西教寺の檀家となって町の再興に乗り出し、
本坊・他を寄進し保護し、菩提寺としました。現在の伽藍はそののち、
近世に再興されたものだそうです。
国重要文化財の本堂は、2.8mの阿弥陀如来坐像(重文)を安置しています。
元文4年(1739)建立、総ケヤキ、入母屋造、本瓦葺入母屋造、本瓦葺の
豪壮な建物です。
ケヤキの用材は紀州徳川家、時の徳川吉宗公から寄進されたものです。
特に正面の欄間(十六羅漢)や須弥壇(籠刻)はすべてケヤキの素木造りで
豪華な彫刻を織りまぜ、江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています
貞盛上人の教えをひたすら守られているため、本堂からは今も不断念仏の
鉦(かね)の音が絶えないそうです。
本堂の外陣に東側には十六羅漢の一つ賓頭盧像(びんずるぞう)、
西側に猿の常念仏姿の木像があります。撞木(しゅもく)をもって鉦(かね)をたたく
手白の猿です。
叡山では、西教寺を復興した貞盛上人の出現を心良からず思っている者たちが、
日吉社を襲った土一揆の首謀者を貞盛上人に仕立て上げ、明応2年(1493)の早朝に
僧兵を使って、真盛上人を追い出そうと謀りました。
その時、越前に逃げていた貞盛上人にかわり、本堂で「手白の猿」が不断念仏の鉦を
叩いていたという伝説が残ります。
日吉山王の使者である猿までもが上人の不断念仏の教化を受け念仏を唱えている
事を目の当たりにした僧兵はその場を立ち去ったといわれます。
このときの猿の手が白かったことから「手白のましら(猿)伝説」といい、
その後、寺を護る猿として「護猿[ござる]」となり、縁がござる、福がござると
親しまれています。
寺では、ごえんと呼んで「五猿」と書きますので、本堂の猿の木像を撫でて、
よい護猿(ごえん)をいただいてください。
客殿は、国重要文化財で、本堂から廊下で繋がっています。
天正17年(1589)の建立のこけら葺の立派な書院造の建物で、
桃山御殿と言われています。
もとは豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、大谷刑部吉隆の母・山中長俊守内室が
寄進したもといわれています。
客殿は、上座の間を最高に、東から北へ並ぶ花鳥・賢人・猿喉(えんこう)
・鶴の間と続き、二列に配置された室にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれ、
とくに、上座の間の床・棚は古式を遺して障壁画も完備した非常に優秀な建築で、
貴重な桃山時代の様式を今に伝える建物です。
賢人の間の内仏は京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来座像(重文)です。
この建物には柱や長押などに裂け目や接いだ痕が見られることも、
その時代を感じさせられますね。
内部はガラス越しに拝観できますが、撮影は不可となっています。
狩野永徳の肉筆によるものと言われる襖絵、壁、腰障子など、
お宝が並びます。
今でこそ、色は褪せてはおりますが、桃山時代当時の美しさは
言葉で言い表せないほどだったでしょう。
書院の前庭は50坪程ですが、生垣、庭門、石橋、石籠などがあって、
鑑賞式枯山水の美を見せています。
桃山時代当時の裏山の斜面を比叡の山並みに、中央の池泉を琵琶湖に見立て、
中央には出島や岩島を配した蓬莱石組みの美しい庭園です。
裏山の急傾斜の山畔部を巧みに利用し、丸刈角刈の小刈込を駆使しております。
中央の池泉は琵琶の姿を取り入れた瓢型で、山畔の下部と池泉との間に小丘坡を築いた
二つの石組で構成されています。
初夏の新緑、さつきの咲く頃、秋たけなわの紅葉、冬の雪景色等は特に素晴らしい眺め
となるそうです。
阿弥陀二十五菩薩石像が、書院庭園を望む廊下に奉遷供養されています。
天正12年(1588)幼くして亡くなった娘の往生浄土を願って、富田民部之進が
建立したと伝えられます。各々の菩薩は、それぞれの手にちがう楽器を持っています。
臨終に当たって阿弥陀仏が、二十五菩薩を従えて音楽を奏し、来迎されるという教え
に基づいてつくられたものです。
中世以降庶民信仰の隆盛とともに、身の廻りの石材を使って自ら仏を刻み、
大量の石仏が作られたのだそうです。
明智光秀の糟糠の妻として有名な妻木煕子の墓がひっそりと建ちます。
細川ガラシャの母親にあたり、1576年、本能寺の変の6年前に亡くなっています。
大本坊
約150人が宿泊できる施設です。本坊とは庫裏のことをいいます。
当初は、明智光秀から坂本城の陣屋を寄進されたものでした。
現建物は昭和33年に完成した、昭和の木造建築としては県下で
最大のものだそうです。
戦国ファンは、ぜひ訪れてほしいスポットです。
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