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墨俣光受寺の飛龍梅と ぶらり寺町 [街並み]

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春の陽気に誘われて、前日8分咲きと書いてあった墨俣 
光受寺さんに梅を観に出かけました。

岐阜バス墨俣バス停で下車 ここから歩いていくと、
まず墨俣神社さんがみえてきます。
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墨俣大明神を祀る神社です。元々、長良川の南西にありましたが、
昭和8年の犀川の工事の折、この地に移されました。

その名残として、神社と同じ様に移された常夜燈台座が境内に残されています。
長良川を利用した水運が盛んだった頃、船頭を務める氏子達の安全祈願の為、
旧墨俣神社と渡船場の間の港番屋の横に建てられました。

濃尾震災で、火袋と棹部を破壊され、台座のみの姿となってはおりますが、
当時を偲ぶ貴重な資料ですね。

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神社から細道を入っていくと、「寺町」になります。
四方にお寺が並ぶ中、先ずお目当ての光受寺さんへ。

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光受寺は 天台宗法蔵寺として創建されましたが、寛永年間に正善が深く
蓮如上人に帰依し天台宗から浄土真宗に改宗しました。
7世正圓の時、現在地に移り、寺号を光受寺と改めました。

門をくぐると、紅や白のしだれ梅約20本が境内を彩り、今年の
早く訪れた春を演出しています。
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ピンク色の花をつけた樹齢約80年のしだれ梅―飛龍梅が一際目を惹きます。
幹の太さが最大約40㎝、高さは5mあり、根元かの立ち上がりの
ねじれの美しい幹が特徴で、見事な枝ぶりや、曲線の美しさを誇っています。

今にも飛び立とうする龍のような形をしていることから
「飛龍梅」と名付けられたそうです。

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鐘楼のところのしだれ梅は、満開近しという感じです

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本堂内には、書画や生け花が展示されています。
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鴨居の十二支の彫刻が面白いです。その中の 丑と卯です。
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地元の方によるお茶とお菓子の接待もあり、ちょっと一息つけるのも
嬉しいですね。
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雛祭りを前にして、町内各地で「つりびな」の展示が行われていました。
この寺にも、つりびなとひな人形の展示スペースが設けてあります。

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江戸時代、享保年間のひな人形が目を引きますね。
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本堂から、振り返ると境内はこんな感じです。

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3/5の土曜日はライトアップされるそうです。
昼とはまた違ったしだれ梅の姿が見れそうですね。

光受寺さんを出て、寺町を散策します。
古く格式のあるお寺が、狭い地域にかたまってあります。
明台寺さんは浄土宗西山禅林寺派ですが、
広専寺さん、本正寺さん、光受寺さん、等覚寺さん、満福寺さん等
浄土真宗大谷派のお寺さんが多いです。

関ヶ原の戦いの時に、石田三成の軍勢によって身の危険にさらされた
教如上人をこの地の門徒衆が護ったことが伝えられています。
その名を直参土手組十日講と言います。

彼らの命を懸けた行動への礼として教如上人は彼らを土手組という名を称し
感謝の手紙(御墨附)とともに絵像を授与したのです。
先人と上人の遺徳を顕彰する営みは四百年を経た現在も十日講という形で
続いているのです。

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本正寺さん

山門は墨俣脇本陣を移築したものだそうです。

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満福寺さん

平安初期創建当時の満福寺は天台宗の寺で、熊谷蓮生房の嫡子祐照法師が
親鸞聖人に帰依して、金足山・熊谷院と名乗る

天文日記(石山本願寺日記、1536)によると、
この頃には末寺を持ち、織田信長が攻め入る長島合戦には
第13代釈祐鎮が「愛山保護法」と参じ、自害している。

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天正九年(1581)には、人心安寧を願う 豊臣秀吉より三百三十石
の采邑を賜って後、寺基をこの地に移した。
徳川初期には末寺七十ケ寺、後には九十六ケ寺を持つ中本山として
隆盛を極めたが、明冶初期ことごとく独立した。
古来美濃三か寺の一宇ともいわれ、世人「墨俣御坊」とも呼ばれている。
ご本尊「阿弥陀如来」は春日の作と伝えられ、
熊谷堂には「蓮生房の木造」や「秀吉の書」など
寺宝が沢山あり、境内には句碑など多数存する
 〔立て看板―中本山として―より〕

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等覚寺さん

等覚寺のまきの木で知られます。

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金勝山 龍華院 廣専寺さん
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明台寺さん

1126年(大治元年)、覚鑁がこの地を訪れ、清光山 密厳院 明台寺として、
真言宗の寺院として開山ました。
現在は、改宗して、浄土宗西山禅林寺派永観堂禅林寺が本山の
お寺となっており、西美濃三十三霊場19番札所として知られています。

明台寺には数多くの文化財があり、斎藤利藤の墓や土岐悪五郎の墓のほか、
「日本外史」の著者である頼山陽がこの地に投宿した際に選書した
漢文の墓碑銘をもつ澤井宗白の墓などがあります。


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橋杭笑地蔵(はしくいわらいじぞう)
昔、墨俣川に橋があり、朽ちた橋杭が夜光を放つため、村人が掘り出すと、
お地蔵様の姿に見えたので、大切に祀りました。
その後、弘仁年間に参議小野篁公が彫刻して地蔵尊を完成しました。
天慶二年に朱雀天皇がこの地蔵堂で雨宿りをされ、村人から地蔵様の由来を聞いて、
「朽ち残る 真砂の下の橋ばしら また道かえて 人渡すなり」と献歌されると、
にっこり笑われたので、以来、「橋杭笑い地蔵様」として大切にお祀りされています。

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津島神社さん

墨俣宿ができた頃から、牛頭天王を祀っています。
明治初期に津島神社と改称されましたが、古くから〝お天王さん〟
と呼び親しまれています。
毎年7月第4日曜日には天王祭があります。
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寛政3年の琉球使節の通行の折、通行記念にと残した
琉球国儀衛正毛延柱の刻銘入りの石灯籠があります。

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延命寺さん

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お隣の 弘法堂さん
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また、墨俣は美濃路の宿の一つです。
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美濃路は江戸時代に脇往還として中山道・垂井と東海道・宮宿を繋ぎました。
関が原の戦では東軍の福島正則が進軍し、徳川家康が凱旋した道でもあります。
この墨俣は、宿泊というよりむしろ休憩地として、あるいは船付場としての役割が
大きかったようです。

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本陣跡常夜灯
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墨俣町中町の堤防角にあった本陣は、建物は残っておりません。
慶長年間に初代「沢井九市郎正賢」、二代目以降は代々、沢井彦四郎を名乗り
明治に至るまで、十三代続きました。

墨俣本陣跡の碑
1600年に始まり美濃路の宿となり、大名の休泊所として本陣がおかれました。
伊達政宗が宿泊したことから「伊達様御本陣」とも呼ばれました。

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脇本陣は、古い街並みの中に、ほぼ昔のままで現存します。
この脇本陣が案内所をかね、お土産物も売られています。

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こじんまりした街ですが、寺町、宿場町の見どころが凝縮されており、散策にお勧めです。








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