斎藤道三公役の本木雅弘さんも訪れた鷺山城址 [戦国]
2020年NHK大河ドラマ[麒麟がくる]の縁の地との事で、2019年12月撮影-
2020年NHK[鶴瓶の家族に乾杯]にて、斎藤道三公役の本木雅弘さんが参拝
鷺山【北野神社】(京都の北野神社より勧請)が紹介されていました。
歴史が好きだった私は、学生時代を含め、城跡には何回か訪れたものの、
記憶は不鮮明で、特に、この北野神社さんは記憶に無いのです
そんな訳で、妙にこの鷺山が気になり始めていたのですが、既に
放送から、1ヶ月も経ち、やっと鷺山城址に行く事となりました。
JR岐阜駅より、岐阜バス岐南町線のN45系統【岐阜大学病院行き】にて、
〔さぎ山小学校前〕バス停下車。左手にこんもりとした杜が見えます。
これが、鷺山で、山と言っても街の中にある 標高68mの小山です。
バス停から、徒歩約1分で登城口となります。
この城は、鎌倉時代の文治年間(1185~1190年)に
佐竹秀義が築城した と 謂われます。
その後、美濃守護の土岐氏も 一時、居館としていました。
この鷺山の麓には福光御構(蝉土手城館)が築かれていたのです。
天文17年(1548年)斎藤道三は家督を、息子の斎藤義龍に譲ると
鷺山城に隠居し、帰蝶(濃姫)は天文18年(1549年)2月24日
この鷺山城から尾張国の織田信長に嫁ぎました。
丁度、大河ドラマ[麒麟がくる]のシーンだったので思い巡らせました。
弘治元年(1555年)義龍は鷺山城から道三を追放し、
翌年に 長良川の戦いで道三を攻め滅ぼしました。
この戦いの後 鷺山城は廃城となりました。
因みに、明智光秀も、主君を失い、浪人となってしまうのです。
バス停より少し進むと、裏手に土塁の一部が残るという 水門社宅があり、
隣に、北野神社さまが鎮座されています。
鷺山の麓、この辺りには福光御構(蝉土手城館)が築かれていました。
北野神社
御祭神
境内の【斉藤道三公慰霊碑】
は、本木さんが手を合わせられたところですね。
これは、最近になって作られたものだそうです。
♪《君が代》の歌詞にもある、さざれ石。
岐阜県の春日村の天然記念物として有名です。
北野神社の階段左にある【鷺山城跡の説明看板】
その下の土台の石は、土砂採取の工事中に出て来た
鷺山城の礎石 と言われています。
老いた私の記憶は不鮮明な事もありますが、何か印象が違っています。
鷺山城祉の保存会の御尽力により、伐採、整備されていたのも事実。
標高68mの鷺山にある鷺山城址登場口へは、北野神社からと
脇?参道からの続き
上り易そうな鷺山公園からの道を 今回は上がります
鷺山公園には、道三岩と濃姫岩があります。
濃姫こと帰蝶は、信長に嫁ぐ前は、この鷺山で暮らしていたのです。
近隣住民の、ウォーキングや犬との散歩コースの様で、お彼岸で未だ明るい、
夕方5時過ぎとなるものの、山頂に向かう人達と狭い山道ですれ違う。
山頂までの道は、石組みの城風の段差があり、石垣が造られていますが、
かつての鷺山城とは、全く別物で、公園として造られたものの様です。
大体、この城が築かれた時代、石垣が組まれる事は無かったと思います。
頂上には、当時の遺構は殆ど残っていない。しかし、展望台から見る
稲葉山城の眺望は、信長や道三の時代と変わらない?のかも知れません。
岐阜の長良川を挟んで南岸の[金華山(きんかざん)]
と 対角線上にある[鷺山城址(さぎやまじょうし)]
道三も、ここから、稲葉山城を仰ぎ見たのではないでしょうか?
道三と義龍は対立しますが、その理由は、今後の大河ドラマの話の展開に
譲る事と致しましょう。けれど、この景色は、後の歴史を知っているからこそ、
感慨深いものとなる筈ですよね。
翌弘治2年(1556)再び道三と義竜の軍は長良川で戦い、祟福寺の門前で、
道三は討死しました。
道三塚に眠ります。
道三の死後、鷺山城は廃城となり、役割を終えます。
道三の隠居所は山の東南山麓にあり、長良川の水を引いた庭園が造られていた
と謂われますが、遺構は残っていません。
急な階段を登り、登山道を暫く登ると山頂の案内板があり、
その脇の階段を登った所が本丸で、
その一段下にも平地があり、あづま屋が建ち、一休みできます。
親子が楽しそうに座られていたので、付近からの眺望に止めました
平らな土地の真ん中付近に鷺山城址の碑があります。
西へ降りる石段を少し降りると左側の本丸下になる杉林の中に
複数の竪堀跡が見られます。
そのまま道を降りていくと、麓の心洞寺に出ます。
この鷺山城と、稲葉山城を比べると、比較にならない程
こじんまりとしております。
義龍と戦いをしても、結果は目に見えていたと思われます。
鷺山城に移った当時、道三も想定していなかったのでしょう?
長良川の戦いの前に、道三は鷺山城を出て、城田寺に本拠を移しました。
蝮の道三として恐れられたあの道三公が、晩年暮らした城は、
驚く程ひっそりと静かに岐阜の街を見下ろしてしています。
取り立てて何も残っていませんが、道三の生涯を回想するには、
最適なロケーションと言えるのではと思うのです?
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2020-02-24
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拙著と拙著の紹介の記事や掲載されたもの等です↓
『指ではじくだけで肩の痛みが治る!―江戸の秘術から生まれた凄ワザ』自由国民社刊
2019年11月2日発売の健康情報誌[夢21・12月号]わかさ出版-の
特集「手・肩・首のしびれ・痛み・違和感、肩こり・頚椎症のセルフケア」、
-バネ指や腱鞘炎の痛みや違和感が改善する「腱はじき」の記事が掲載されました
https://ma-35.blog.ss-blog.jp/2019-10-29 [夢21・2019年 12月号]
『痛みもコリも一瞬でとれる筋ツイスト』秀和システム刊
月刊からだにいいこと 2019年 5月号 [ゴロゴロ筋ツイスト] が掲載されました。
拙著の骨盤と肋骨の筋ツイストが基になっています。
https://ma-35.blog.ss-blog.jp/2019-02-07 [からだにいいこと 2019 5月号]
自然といっしょにvol.139 2018年10月号 [セルフ筋ツイスト]が掲載されました
https://ma-35.blog.ss-blog.jp/2018-09-20 [自然といっしょに 2018年10月号vol.139]
2019年6月27日刊行 『岐阜市の昭和』(写真アルバム) ご覧下さいませ
[岐阜市の昭和]に6枚提供の写真が掲載されました
https://ma35-main.blog.ss-blog.jp/2019-06-15
https://ma35-main.blog.ss-blog.jp/2019-06-25
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鷺山【北野神社】(京都の北野神社より勧請)が紹介されていました。
歴史が好きだった私は、学生時代を含め、城跡には何回か訪れたものの、
記憶は不鮮明で、特に、この北野神社さんは記憶に無いのです
そんな訳で、妙にこの鷺山が気になり始めていたのですが、既に
放送から、1ヶ月も経ち、やっと鷺山城址に行く事となりました。
JR岐阜駅より、岐阜バス岐南町線のN45系統【岐阜大学病院行き】にて、
〔さぎ山小学校前〕バス停下車。左手にこんもりとした杜が見えます。
これが、鷺山で、山と言っても街の中にある 標高68mの小山です。
バス停から、徒歩約1分で登城口となります。
この城は、鎌倉時代の文治年間(1185~1190年)に
佐竹秀義が築城した と 謂われます。
その後、美濃守護の土岐氏も 一時、居館としていました。
この鷺山の麓には福光御構(蝉土手城館)が築かれていたのです。
天文17年(1548年)斎藤道三は家督を、息子の斎藤義龍に譲ると
鷺山城に隠居し、帰蝶(濃姫)は天文18年(1549年)2月24日
この鷺山城から尾張国の織田信長に嫁ぎました。
丁度、大河ドラマ[麒麟がくる]のシーンだったので思い巡らせました。
弘治元年(1555年)義龍は鷺山城から道三を追放し、
翌年に 長良川の戦いで道三を攻め滅ぼしました。
この戦いの後 鷺山城は廃城となりました。
因みに、明智光秀も、主君を失い、浪人となってしまうのです。
バス停より少し進むと、裏手に土塁の一部が残るという 水門社宅があり、
隣に、北野神社さまが鎮座されています。
鷺山の麓、この辺りには福光御構(蝉土手城館)が築かれていました。
北野神社
御祭神
境内の【斉藤道三公慰霊碑】
は、本木さんが手を合わせられたところですね。
これは、最近になって作られたものだそうです。
♪《君が代》の歌詞にもある、さざれ石。
岐阜県の春日村の天然記念物として有名です。
北野神社の階段左にある【鷺山城跡の説明看板】
その下の土台の石は、土砂採取の工事中に出て来た
鷺山城の礎石 と言われています。
老いた私の記憶は不鮮明な事もありますが、何か印象が違っています。
鷺山城祉の保存会の御尽力により、伐採、整備されていたのも事実。
標高68mの鷺山にある鷺山城址登場口へは、北野神社からと
脇?参道からの続き
上り易そうな鷺山公園からの道を 今回は上がります
鷺山公園には、道三岩と濃姫岩があります。
濃姫こと帰蝶は、信長に嫁ぐ前は、この鷺山で暮らしていたのです。
近隣住民の、ウォーキングや犬との散歩コースの様で、お彼岸で未だ明るい、
夕方5時過ぎとなるものの、山頂に向かう人達と狭い山道ですれ違う。
山頂までの道は、石組みの城風の段差があり、石垣が造られていますが、
かつての鷺山城とは、全く別物で、公園として造られたものの様です。
大体、この城が築かれた時代、石垣が組まれる事は無かったと思います。
頂上には、当時の遺構は殆ど残っていない。しかし、展望台から見る
稲葉山城の眺望は、信長や道三の時代と変わらない?のかも知れません。
岐阜の長良川を挟んで南岸の[金華山(きんかざん)]
と 対角線上にある[鷺山城址(さぎやまじょうし)]
道三も、ここから、稲葉山城を仰ぎ見たのではないでしょうか?
道三と義龍は対立しますが、その理由は、今後の大河ドラマの話の展開に
譲る事と致しましょう。けれど、この景色は、後の歴史を知っているからこそ、
感慨深いものとなる筈ですよね。
翌弘治2年(1556)再び道三と義竜の軍は長良川で戦い、祟福寺の門前で、
道三は討死しました。
道三塚に眠ります。
道三の死後、鷺山城は廃城となり、役割を終えます。
道三の隠居所は山の東南山麓にあり、長良川の水を引いた庭園が造られていた
と謂われますが、遺構は残っていません。
急な階段を登り、登山道を暫く登ると山頂の案内板があり、
その脇の階段を登った所が本丸で、
その一段下にも平地があり、あづま屋が建ち、一休みできます。
親子が楽しそうに座られていたので、付近からの眺望に止めました
平らな土地の真ん中付近に鷺山城址の碑があります。
西へ降りる石段を少し降りると左側の本丸下になる杉林の中に
複数の竪堀跡が見られます。
そのまま道を降りていくと、麓の心洞寺に出ます。
この鷺山城と、稲葉山城を比べると、比較にならない程
こじんまりとしております。
義龍と戦いをしても、結果は目に見えていたと思われます。
鷺山城に移った当時、道三も想定していなかったのでしょう?
長良川の戦いの前に、道三は鷺山城を出て、城田寺に本拠を移しました。
蝮の道三として恐れられたあの道三公が、晩年暮らした城は、
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『指ではじくだけで肩の痛みが治る!―江戸の秘術から生まれた凄ワザ』自由国民社刊
2019年11月2日発売の健康情報誌[夢21・12月号]わかさ出版-の
特集「手・肩・首のしびれ・痛み・違和感、肩こり・頚椎症のセルフケア」、
-バネ指や腱鞘炎の痛みや違和感が改善する「腱はじき」の記事が掲載されました
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『痛みもコリも一瞬でとれる筋ツイスト』秀和システム刊
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拙著の骨盤と肋骨の筋ツイストが基になっています。
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自然といっしょにvol.139 2018年10月号 [セルフ筋ツイスト]が掲載されました
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2019年6月27日刊行 『岐阜市の昭和』(写真アルバム) ご覧下さいませ
[岐阜市の昭和]に6枚提供の写真が掲載されました
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梅林公園に ひっそり竜興庵 [地域情報]
岐阜梅林公園へ向かう途中に、瑞龍寺さんがあります。
瑞龍寺の裏手の山には土岐成頼と斎藤妙椿のお墓が並んでいます。
例年は、梅祭りの二日間は一般に本堂が開放されて拝観することができます。
2020年3月14・15日の【ぎふ梅まつり】は、残念ながら開催中止です。
本年は、開花も早かったので、梅まつり迄、遅咲きが残ってくれるのか?と
懸念をしておりました。 園は開放されていますので梅の花は観られます。
斎藤妙椿は美濃守護代を務めていましたが、実際には甥の利藤が守護代で、
自身は後見人となっていた様です。
官位は従三位権大僧都と、主君である土岐成頼以上の官位だったのが示す様に、
大きな権力を持っていました。
その死後に守護代斎藤氏は家督争い等から衰退し、京都妙覚寺の僧から転身した
長井新左衛門尉とその息子である長井新九郎-のちの斎藤山城守利政に、
実権を奪われてしまいます。
それが、2020年のNHK大河ドラマ【麒麟がくる】で、丁度、オンエアが
されている状況な訳です。
その道三も息子である斎藤義龍に討たれ、道三塚に眠ります。
その義龍も、若くして病死します。そこで家督を継いだのが斎藤龍興。
その後の、竜興の人生の大半は、信長の反抗に費やされました。
織田信長が今川義元を破った勢いのまま、美濃に進出。
有力家臣の死亡や離反により勢いが削がれ、酒食に溺れる。
そんな折、竹中半兵衛と重矩や安藤守成に稻葉山城を奪取。
その時は、主君龍興に返還されるも、斎藤氏は衰退の一途を辿り、
西美濃三人衆の内応を取りつけたのを機に、稻葉山城を攻撃する。
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2014-02-22
落城後、信長がこの地を岐阜と改め、金華山に岐阜城を造営する。
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2014-02-23
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2014-04-01
岐阜の町は勿論、京をも見渡せるかの錯覚を起こす 眺めが広がる。
そうなっても、竜興は、相変わらず、長島一向一揆と協力して信長に抵抗する。
三好三人衆と結託し、信長が擁立した 室町幕府第15代将軍・足利義昭
を攻め殺そうとしたが、敗退。その後も、三好三人衆の籠城を支援。
後に、縁戚関係にあった事から越前国の朝倉義景の下へ逃れて保護された。
朝倉氏や越前・美濃の門徒の支援を受けた龍興が北から、
長島の門徒の支援を受けた日根野が南から、美濃に入国・挟撃する計画がなされ、
実際に作戦が実行されたが、朝倉軍が雪のせいで 全軍を越前に引き上げ、
龍興も美濃国復帰までには至らず。
天正元年(1573年)8月、義景が浅井長政を支援し、信長と対決する為に
近江国北部に出陣した際に龍興も従軍したが、8月14日、朝倉軍が
織田軍に敗れ刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した。
法名は瑞雲庵竜興居士とされるが、
『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとあります。
その斎藤龍興が道三と義龍の菩提を弔うために創建したのがこのお寺、
美濃新四国霊場第十五番札所大雲山龍興寺です。
石碑の方には龍興庵と刻んで有りますね。
元々は、この地の南の加納にあったものを移築したといます。
日頃から大切にしていた知恵観音を本尊とし、龍興庵と号したが、
龍興の死後、寺は衰えてしまったので、瑞龍寺の綾州和尚が残念に思い、
明治14(1881)年に、こちらへ移築したものだそうです。
階段の中腹にはお地蔵様二体と馬頭観音。
裏の山肌には、烏帽子岩と琵琶石
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2013-04-08
梅林公園
2020年—全体に梅の花の咲く時期は、例年より早かった模様。
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2016-02-22
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例年は、梅祭りの二日間は一般に本堂が開放されて拝観することができます。
2020年3月14・15日の【ぎふ梅まつり】は、残念ながら開催中止です。
本年は、開花も早かったので、梅まつり迄、遅咲きが残ってくれるのか?と
懸念をしておりました。 園は開放されていますので梅の花は観られます。
斎藤妙椿は美濃守護代を務めていましたが、実際には甥の利藤が守護代で、
自身は後見人となっていた様です。
官位は従三位権大僧都と、主君である土岐成頼以上の官位だったのが示す様に、
大きな権力を持っていました。
その死後に守護代斎藤氏は家督争い等から衰退し、京都妙覚寺の僧から転身した
長井新左衛門尉とその息子である長井新九郎-のちの斎藤山城守利政に、
実権を奪われてしまいます。
それが、2020年のNHK大河ドラマ【麒麟がくる】で、丁度、オンエアが
されている状況な訳です。
その道三も息子である斎藤義龍に討たれ、道三塚に眠ります。
その義龍も、若くして病死します。そこで家督を継いだのが斎藤龍興。
その後の、竜興の人生の大半は、信長の反抗に費やされました。
織田信長が今川義元を破った勢いのまま、美濃に進出。
有力家臣の死亡や離反により勢いが削がれ、酒食に溺れる。
そんな折、竹中半兵衛と重矩や安藤守成に稻葉山城を奪取。
その時は、主君龍興に返還されるも、斎藤氏は衰退の一途を辿り、
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落城後、信長がこの地を岐阜と改め、金華山に岐阜城を造営する。
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岐阜の町は勿論、京をも見渡せるかの錯覚を起こす 眺めが広がる。
そうなっても、竜興は、相変わらず、長島一向一揆と協力して信長に抵抗する。
三好三人衆と結託し、信長が擁立した 室町幕府第15代将軍・足利義昭
を攻め殺そうとしたが、敗退。その後も、三好三人衆の籠城を支援。
後に、縁戚関係にあった事から越前国の朝倉義景の下へ逃れて保護された。
朝倉氏や越前・美濃の門徒の支援を受けた龍興が北から、
長島の門徒の支援を受けた日根野が南から、美濃に入国・挟撃する計画がなされ、
実際に作戦が実行されたが、朝倉軍が雪のせいで 全軍を越前に引き上げ、
龍興も美濃国復帰までには至らず。
天正元年(1573年)8月、義景が浅井長政を支援し、信長と対決する為に
近江国北部に出陣した際に龍興も従軍したが、8月14日、朝倉軍が
織田軍に敗れ刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した。
法名は瑞雲庵竜興居士とされるが、
『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとあります。
その斎藤龍興が道三と義龍の菩提を弔うために創建したのがこのお寺、
美濃新四国霊場第十五番札所大雲山龍興寺です。
石碑の方には龍興庵と刻んで有りますね。
元々は、この地の南の加納にあったものを移築したといます。
日頃から大切にしていた知恵観音を本尊とし、龍興庵と号したが、
龍興の死後、寺は衰えてしまったので、瑞龍寺の綾州和尚が残念に思い、
明治14(1881)年に、こちらへ移築したものだそうです。
階段の中腹にはお地蔵様二体と馬頭観音。
裏の山肌には、烏帽子岩と琵琶石
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