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井伊家ゆかりの龍潭寺 [戦国]

奥浜名湖の北、自然豊かな井伊谷に、井伊家の菩提寺である
萬松山龍潭寺があります。
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この井伊谷は、古くは「井の国」とよばれ、清らかな水が豊かに湧き出る所でした。
浜名湖の注ぐ井伊谷川、神宮寺川の沿っての台地には縄文・弥生の遺跡、
古墳が数多く残され、「井の国の大王」が聖水祭祀をつとめたことがうかがわれます。

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寺の南に、井伊氏元祖 共保公出生の井戸があります。
共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた
名門井伊氏の元祖です

井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では
御醍醐天皇皇子、宗良親王を迎え北朝と戦い武勲をなしています。


室町時代、今川氏に仕え「桶狭間の戦い」で戦死をした
井伊家22代直盛の戒名をとり、龍潭寺と寺号を変え、今に至ります。
因みに、再来年
2017年(平成29年)のNHK大河ドラマ、「おんな城主 直虎」の主人公
井伊直虎は、直盛の一人娘で、いったん出家していました。

直盛から家督を継いだ 23代直親が謀殺されると 
井伊家は存続の危機にみまわれ、 直親の遺児の幼い虎松(24代直政)
ただ一人となり、龍潭寺南渓和尚の計らいで 直盛の一人娘が
その後見人として井伊直虎と名乗り、
女領主として 井伊家を支えたという物語です。

井伊家を世に知らしめたのは、戦国時代に、その
24代直政が浜松城主徳川家康に仕え、数々の武勲を建てた事に始まります。

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2歳の時に、父直親が今川氏真により殺され、井伊家に存亡の危機が訪れます。
三河鳳来寺に預けられていた直政は、15歳の時に 家康の家臣となり、
旧武田軍の「赤備」の軍を統率します。

小牧長久手の戦いにて、この赤備部隊が活躍して、井伊の赤鬼と恐れられ、
6万石の大名として 井伊家を再興したのです。

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やがて徳川四天王の筆頭となり、関ヶ原の戦いの勝利に貢献して、
彦根の要所の地に出世をし、そして、幕末に36代井伊大老直弼が
開国の偉業をなしとげるわけです。

龍潭寺は、元祖共保公より40代に到る祖霊を祀る菩提寺として、
歴代当主に深く帰依されて来ました。

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城郭造りをしのばせる石垣。

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階段を上り詰めると正面に禅寺特有の美しい大破風の庫裡が建つ
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本堂
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延宝4年(1676)再建。大檀越 井伊直與公(27代)。
当山七世喝岩和尚代。


鴬張りの廊下

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龍の彫刻(伝左甚五郎作)江戸時代中期 仏殿に使用された蛙股の彫り物

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丈六の仏

木彫寄木造りの釈迦如来坐像で、身丈 2.80m(総丈台座共3.55m)の丈六仏です。
享保14年(1729)9世祖山和尚時代の建立です。
お身体、お顔に残る傷跡は、 廃仏棄釈の際つけられた歴史的痕跡であるといわれます。


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開山堂


本堂西に朱塗りの楼閣造り開山堂があります。
八世徹叟和尚が建立し、開山黙宗瑞淵和尚を祀っています。
塔上に井伊氏の家紋彦根橘、彦根井筒を見ることができます。

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萬松稲荷
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江戸中期、当山九世祖山和尚の夢枕に稲荷大明神が立ち、
この山に住む所がないので
お金を置いておくので祠を立ててくれるように告げ、
枕もとに金三両が置いてあったという。
和尚さんは祠を造り、稲荷大明神を鎮守様として祀り、それ以来、
「夢をかなえてくださる 正夢のいなりさん」と信仰されているそうです。


御霊屋(みたまや)には、井伊家千年にわたる祖霊をお祀りされています。

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ご霊殿の特別公開が行われていました。
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大名であり、造園の名手といわれた小堀遠州作の龍潭寺庭園は、
江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園です。

中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、
池の型が心字池となっています。
数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されている。

岩は、地元で産するチャート岩を使い、明るくすんだ庭で、春のさつき、
秋の満天星と四季折々の変化にも富む名庭です。
昭和11年国指定名勝に指定されました。

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元祖 井伊共保公より24代 井伊直政公までが、境内の墓地にて眠っておられます。

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島津の退き口と 島津豊久公のお墓 [戦国]

【関ヶ原の戦い】を前に、九州・薩摩の大名島津家は、お家内の騒動に加え、
2度にわたる朝鮮出兵の負担が、九州の大名に多く課せられた事で疲弊しており、
兵を出すか否かで2つに意見が分かれていました。

当主島津義久は薩摩より動かず、少ない手勢で島津義弘は参戦します。
家康からの圧力に加え、黒田如水の侵攻に備える必要もあり、
国許から援軍も出してもらえなかったようです。

そこで、大阪にいる家臣の他、義弘を慕う荒武者達が、それぞれ徒歩や泳いで
馳せ参じたと云われ、少数ながら強者揃いで、主君を忠誠度、団結力は強力
であったと云います。

パンフレットより 関ヶ原の合戦時に使われた鎧
上石津史P4260067.JPG

それを、世に知らしめたのは、『島津の退き口』と言われる、
関ヶ原の戦いにおける島津軍の撤退戦です。
撤退戦といえど、島津が選んだのは、敵中突破と言う捨て身に近い
命を懸けた壮絶な戦法でした。
井之内バス停P4260052.JPG


関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れ、
西軍は次々に各部隊が敗走するその中で、最後まで陣から動かなかった
島津義弘率いる島津軍は、約三百。八万の敵を前に孤立してしまうのです。

敗走や撤退する場合は、敵とは逆の方向へ向かうのが常識と言うものですが、
島津郡は徳川軍本隊の目前まで一気に突激。
驚く敵陣の脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けたのです。

上石津史P4260065.JPG

当然徳川軍は追撃するものの、この時『捨て奸(すてがまり)』といわれる
決死の足止め役が、追撃を食い止める為に捨身で襲い掛かるという戦法を取ります。

先ずは、関ヶ原と養老の境にある烏頭坂で、義弘の甥島津豊久が仕掛けます。
島津家としては、総大将義弘が無事に薩摩へ帰り家康に謝罪をせねば、
藩は御取り潰しになること必至なのです。
その為、どんな犠牲を払っても義弘を生かして国許に返す事が必要だったのです。

先ず、烏頭坂にて 豊久を頭とする集団が本隊から離脱し、
敵に視認し辛くするのと射撃時の命中率向上の為、座禅を組み座り込んで
敵将の方に向きを変えて火縄銃を構えます。

敵に向けて狙撃し、撃った後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み、
死ぬまで戦うという時間稼ぎ戦法をとります。

その間に追手は足止めを食らい、義弘はその間に先に進みましたが、
捨て奸の兵士もほぼ壊滅し、豊久も重傷を負います。
豊久の乗っていた馬が 豊久の血にまみれていたと云われる様に、
相当の深手を負ったと思われます。

牧田の辺りでは、重臣・長寿院盛淳が、主義弘より拝領した陣羽織を付け、
「我こそは島津義弘」と名乗り、身代わりとなって討ち死にします。

しかし、徳川軍は執拗に追いかけます。
この時、一緒に豊臣方として朝鮮出兵で戦った豊臣恩顧の大名衆は追っ手を緩めた
と云われますが、徳川の親族、譜代の家臣が襲い掛かったそうです。

最後となった、川上四郎兵衛の捨て奸戦では、味方の柏木源蔵の銃弾により、
井伊直政や松平忠吉の重傷を負う事で追撃の速度が緩み、まもなく家康から
追撃中止の命が出された為、義弘自身は80名の残兵と共に、
奇跡の生還を果たしたのです。

島津豊久公や重臣・長寿院盛淳の犠牲のお蔭と、岐阜城落城の為
近江の領国に向かい敗走していた織田家家臣小林伸六郎正祐と運よく出会い、
土地勘のある者の案内に導かれ、無事大阪に行き、舟にて薩摩に帰国する事
を成し得ています。
瑠璃光禅寺11島津豊久公墓所P4260109.JPG

さて、その島津豊久公の菩提寺が、大垣市上石津町 上多良にあります。
瑠璃光禅寺と云うお寺です。

瑠璃光禅寺17P4260116.JPG

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豊久公は、以前は、烏頭坂で戦死したと云われていましたが、このお寺のある
多良地区までは生き延びてきたという説が主流となっています。

ただ、豊久公の最期については、確たる文書が残っていませんので、
色々な説があり、憶測がなされているのです。


深手を負った豊久公は、おそらく輿にでも載せられて追っ手から逃げたと思われます。
何せ 急な山道を2里ほど進んだ訳です。
上多良の白拍子谷にて、31と云う若さで亡くなったとされます。

この時、この多良の集落に辿り着いた時、助けを求めたが、徳川に咎められる
のを恐れて見殺しにしたという説と、多良の名主・三輪一斎という者が、
豊久公を助けて匿ったが、豊久公は追っ手に見つかった時、
助けてくれた人々に迷惑がかかるのを恐れて
白拍子谷にて自刃したという両極の言い伝えがされています。

勿論、上多良地区の辺りに伝わるのは、後者の言い伝えで、瑠璃光禅師の
飛び地にある墓地には島津塚があり、豊久公を弔うお墓が残っています。

瑠璃光禅寺8島津豊久公墓所P4260107.JPG

瑠璃光禅寺10島津豊久公墓所P4260108.JPG

写真の白菊稲荷の鳥居の、向かって右側の2基の五輪塔が、豊久公のお墓です。

瑠璃光禅寺13白菊稲荷島津豊久公墓所P4260110.JPG

又、江戸に入って、薩摩藩が参勤交代の折に必ずお参りをし、豊久を介抱した
と云われる三輪氏にも謝礼をした事、この寺への供養代・祭祀料を欠かさなかった
事などからも、薩摩藩士たちは、この地にて好意的な扱いを受けたと思われます。

豊久の従者を匿ったという佐古家には、戦場で島津隊が使ったとされる
茶釜と薬研が保管されているそうです。

瑠璃光禅寺6白菊稲荷島津豊久公墓所P4260038.JPG

瑠璃光禅寺の境内。本堂には豊久の位牌が祀られています。
瑠璃光禅寺30P4260048.JPG

今は、人の影も無く 静かに時が流れています。
瑠璃光禅寺21P4260119.JPG

豊久の墓所に行く前に、もう少し手前の宮と云う地区にある 
上石津郷土資料館に立ち寄りました。
上石津郷土資料館は、かつての多良城址で、江戸時代には高木氏の
陣屋が置かれました。
高木三家入郷2P4260009 (2).JPG

高木三家入郷6美の泉陣屋跡P4260008 (2).JPG

上石津郷土資料館P4260018 (2).JPG

ここには、関ヶ原の合戦のコーナーが設けられており、島津隊の背進のルート等
も解説してある他、関ヶ原合戦時に豊久が着用していたという
甲冑(鹿児島県尚古集成館)のパネルが展示してあります。

戦国時代に主流だった桶側胴(おけがわどう)の甲冑ではなく、
南北朝時代の【腹巻】という、たくさん糸を縅した甲冑に近いものでした
右上に突き破った跡、左下に着き滑りの跡が残り、壮絶な戦いであった事
を窺わせます。

上石津郷土資料館
上石津郷土資料館P4260020 (2).JPG

上石津郷土資料館のある宮から上多良に向かう途中の松の木バス停近くに、
高木家の菩提寺の本堂寺があります。

本堂禅寺3P4260087.JPG

宝暦治水において人柱になった舛屋伊兵衛の顕彰碑が建っています。

本堂禅寺12P4260036.JPG

本堂寺前の道は旧街道で、島津背進のルートになります。

宮バス停まではJR大垣駅より路線バスで1時間、上多良まではさらに10分掛ります。
バスは3時間に一本ほどで、現在も 計画性を持って訪ねないといけない
手強いルートとなっています。

2大垣駅バスP4260006 (2).JPG










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まさか! 平成になってこんなに攻め入られるとは・・・[竹田城]の現実 [戦国]

お盆休みに、念願の竹田城を制覇する為に 早朝に家を出て、
京都より特急列車にて昼前には 和田山駅に到着。

―天空の城― ―日本のマチュピチュ― とのフレーズと、
雲海の上に浮かぶ石垣の写真を目にされた方も多いのては?
雲海は9月末からの晴れた日の早朝しかお目にかかれませんので
諦めていますが、日本で有数の完全な形で残る山城遺跡の
壮大なの眺望を楽しみに城に向かいます。
期待感MAX・過剰な妄想がふくらみます。


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この看板にある[雲海に浮かぶ竹田城]の写真、
よく旅行会社のパンフレットで目にしますね。 でも、これって
竹田城からJRの線路を越えた隣の山の立雲峡から撮られたものです。
しかも、雲海の発生する明け方に到着していなければならないので、
暗いうちに上る必要があるのです。


竹田城には、下から山を登るほかは、タクシーかシャトルバスでしか
乗り入れられませんが、「天空バス」は、8月は土日祝日運行の為、
なんとお盆の平日は運行されないとの事。

竹田駅はタクシーは待機していないとの事前情報で、
特急の停まる和田山駅でタクシーを待つも、その影も見えず。
駅前のタクシー会社は、「タクシーは出払っていていつ戻るか解らない」
先に乗り場で待っていた人も「どのタクシー会社にも 電話がつながらない」
とぼやいておられ、タクシーを待つ事を断念。
これが、今回の旅の厳しい現実、早くも暗雲立ち込めてちょっと不安。

播但線で竹田駅を通り越して、生野駅まで行って生野銀山を見学。
生野銀山へはタクシーで行き、帰りは路線バスで戻る予定でしたが、
路線バスはお盆の間は土日祝日ダイヤの為、時間が予定していたのと
違っており、播但線の電車に乗り遅れ、次の列車まで1時間半以上ありました。

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ちぐはぐの旅と諦めて、少しはりこんで生野駅からタクシーで行く事を決意。

生野銀山の行きに利用した「生野タクシー」さんにお願いして
遠路向かって頂きました。

タクシーの運転手さんによると、竹田城への要請が来ても、
30分かけてお迎えに行って15分位の賃走になるので割が合わず、
「すぐに来てください!」と呼ばれても、「30分掛ります」と言わざるを得ず
「そんなに待てません。もういいです」 と断られてしまうそうです。

わずか20km離れているだけで、竹田・和田山のタクシーとは、
かなり、景気の差がある様です。

8000円弱の料金を支払い、一番山頂に近いタクシー降り場まで
運んでもらいました。
ここから、山道をさらに700m、20分かけて徒歩で上がって行きます。

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山門のところで、見学料300円を払い、本格的登城となります。

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聞いていた感じより、かなり 坂道や石段は急できつかったです。

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大手門
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竹田城は
山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、太田垣光景が初代城主と言われます。
この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こり、
山名氏が赤松氏をことごとく退け、滅亡させました。
かつての宿敵同士であった 山名氏と赤松氏それぞれの子孫が、和睦を結び
1988年に「山名赤松両軍慰霊塔」を建てました。

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その後、太田垣氏が7代にわたって城主を務めるも、信長の命による
秀吉の但馬征伐で1580年に落城。
変わって城代となった羽柴秀長が新しく縄張りを行い、
秀吉に投降した赤松広秀が文禄の頃より、豊臣秀吉の支援を受けながら
竹田城の石積みの城郭を整備し、壮大な城へ仕上げたものと言われます。

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ちなみに、赤松広秀は、-関が原の戦い-で西軍に属した事で、
戦後改易のピンチに立たされ、改易の危機を回避すべく
鳥取城攻めに加わって落城させる事に成功。
しかし、城攻めの時、大火を起こした事を家康から責められて
鳥取真教寺にて切腹。
城主を失い、城は廃城となりました。



竹田城の見どころは、穴太積み、算木積みという技法を用いた石垣が有名です。

穴太積みは、大津市坂本の穴太(あのう)衆という人々が持つ石積み技法です。
安土城や姫路城にも見られます。
自然石を加工せずに積む野面積みの一種ですが、
石の形により配置を考えて積む為、野面積みより崩れ難く 高く積めます。

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算木積みとは、石垣の出角部分において、
四角柱の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増して崩れ難くなります。

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もうひとつ、縄張りと言って城郭の平面構成がハッキリわかるという事です。
織豊時代以降の竹田城は、最高所の天守台を中心に起き、本丸以下、
北方には二の丸、三の丸、北千畳があり 一方通行になっている
のでこちらから見て回ります。

二の丸
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三の丸
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北千畳
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南方には南二の丸、南千畳、平殿、さらに 天守台の北部には
花屋敷という曲輪があります。

ここは主郭の中で搦め手の位置にあり、南北に向かい合って石塁を築き
防御性を高めています。

搦手門
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南二の丸
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南千畳
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南千畳より天守台を望む
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眼下に 竹田の町並みを望む

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平殿
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花屋敷も以前は立ち入れた様ですが、現在立ち入り禁止となっており
写真は撮れませんでした。


一番石垣が見事なスポット

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城跡で不思議な石垣、パワースポットと呼ばれる石を見つけました。

北千畳 石垣に謎の印

この・・・・は何の意味があるのでしょうか?

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正門

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正門近くの鏡石

石垣の中で一際目立つこの巨大石を触ると、金運upのご利益があるそうです。

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竹田城は、平成に入って、観光客に攻められ続けられた為、石垣など
かなりのダメージを受けているとは聞いていましたが、聞きしに勝る状態で、
工事現場の様になっており、情緒・風情というものが失われているのが残念です。

2005年度には、僅か1万2000人だった入城者数でしたが、2012年度は約23万人、
2013年度はテレビや雑誌で紹介された影響もあり、50万人の大台に届いたとか。
 

石畳の道は、黒いウレタンのカーペットが敷き詰められてあります。

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あちこちに土嚢が積んであります。
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以前は入れたところも、ロープが張られたり、柵が作られたりしています。
昨年は天守閣台に上がる事ができたそうですが、事故があったとかで
今はそれも叶いません。
天守台から城跡の縄張りを眺めたかったのですが。

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ビニールシートがかけられています。
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石垣は小大名の城とは思えないスケールの大きさを見せ、
ほぼ完全に残されております。

同じ様な規模の山城で石垣が残る岐阜の岩村城が、説明・案内板が整備
されつつも石畳の道や石段などに当時のままの風情が残されているのに対し、

残念ながら手が入り過ぎてしまった感があります。
https://gifu-sengoku.blog.ss-blog.jp/2012-11-27

やはり、多くの人に攻められる事で、ロープーが張られ通行止めのフェンス
が置かれる前に登城すべきであったと 遅参を悔いる羽目になりました。

しかし、この城跡を保存し後世に残す為には仕方がない事ですね。
 

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秀吉が信長の供養の地に選んだ大徳寺・船岡山 [戦国]

織田信長が、本能寺の変にて明智光秀の謀反により倒れると、
天正十年(1582年)10月に、
秀吉により大徳寺にて信長の葬儀が執り行われました。

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お布施や葬儀の費用は一万貫、法要は、17日にも及んだ と云われます。
本能寺の変で、信長の遺骸が発見されなかった為、
秀吉は信長の木像を2体造って、1体を火葬し菩提寺として新たに建立した
大徳寺総見院に埋め、もう一体を本堂に安置したのだそうです。
火葬の際には、信長像が彫られた沈香という香木の香りが都に漂ったそうです。

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法要の際の葬送のパレードが行われた際に、その
信長の木像が納められた金紗金襴の棺は、
金銀をちりばめた輿に乗せ、棺の前後には揃いの装束に身を包んだ
三千人の行列が連なった壮麗なものだったと云われます。
このパレードで、輿の轅(ながえ)を持ったのは、池田輝政と
名目上の喪主とされた 秀吉の養子となっていた信長四男の秀勝、
そして信長の位牌は秀吉が持ったと云われます。

秀吉は、信長の葬儀を取り仕切る事で、信長の後継者は自分である
事を 世間に認知させようとした様です。

秀吉が信長公の追善供養の為に作った菩提寺が大徳寺山内にあります。
総見院という塔頭で、訪れた時にはちょうど特別公開中でした。

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総見院受付
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寺名は、
信長の戒名である「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」に由来しています。
創建当時は、隆盛を極めましたが、明治初期の廃仏毀釈にて
堂塔伽藍や多くの宝物が灰塵と化し、正門と土塀が
秀吉創建当時のままの姿で残っています。

土塀は、親子塀という 塀の内部に塀がもうひとつ設けられる
という珍しい構造となっています。
非常時に、塀の中の空洞に武士が隠れる為に作られたとも云われています。
173 - コピー.JPG

鐘楼も鐘と共に創建当時のままに残され、重要文化財に指定されています。
信長に謀反を起こした明智光秀との-山崎の合戦-で軍功をあげた
堀秀政が信長公の供養のために寄進したものです。
鐘の銘文は、総見院の開祖古渓宗陳和尚の作と云われています

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特別公開時には、本堂に上がって織田信長坐像が拝めます。
本堂中央には、千利休の禅の師であり、
総見院の開祖である古渓宗陳が祀られています。

その左側に、衣冠帯刀の織田信長木像が祀られています。
運慶快慶の流れをくむ仏師康清により作られましたが、
康清は晩年の信長に謁見しており、
等身大の坐像は 晩年の信長の面影をよく伝えているそうです。
教科書でよく見る信長画像と違い、生き生きとした眼が印象に残ります。

信長坐像が祀られている 総見院 本堂
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井筒の部分が大きな朝鮮石で彫り抜かれた珍しい井戸があります。
この石は加藤清正が朝鮮出兵の際、朝鮮から持ち帰ったものと云われます。
朝鮮へ行くときの船は、兵士や武器・物資で埋め尽くされていましたが、
帰りには物資を使い果たし兵士を失って軽くなるので、
舟の安定の重しのために大きな石を積んだと云われます。

この井戸は、深さ10m以上あり 今なお水が湧いているのです。
覗くと、きれいな水に自分の顔を映せるほどです。
毎朝一番の水はここから汲み上げてお供えされ、
茶会の時のお茶を入れる時にも使われているそうです。

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境内の墓地には、信長をはじめ 一族の墓がずらりと並びます。
信長のお墓や供養塔は全国に23か所あります。
本能寺の変で亡くなられた際に、ご遺骸が無かったので
信長公のゆかりの場所に供養のためのお墓が作られました。
中でも、正親町(おうぎまち)天皇の勅許を受けたこの墓は
〝公認の墓〟と言えるのだそうです。

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信長の他にも、長男の信忠、次男の信雄、正室の濃姫、側室のお鍋の方、
息女の徳姫など、信長一族七基の五輪塔やお墓が並びます。

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秀吉が造らせた信長の木像のもう一体は、
船岡山麓に天正寺という菩提寺を造ってお祀りするつもりだったようです。
それは、大徳寺と船岡山を結ぶ長廊下をもつくるという壮大な計画でした。

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正親町天皇より、天正の寺号を賜り
大徳寺の古渓禅師を開山とし竣工が始まりましたが、
石田三成により取りやめにされました。

信長公の後継者の地位と権力を示すには、秀吉の手による
信長公の葬儀や菩提寺建立をすることが有効でしたが、
その目的を果たし、確固たる地位を築いた後は、
必要なくなったようです。

以後 船岡山は、信長公の霊地として大切に保護されていたのを、
明治2年に明治天皇により 信長公の遺徳に対して神社創立の宣下があり、
建勲神社の神号を賜り 社殿をつくり、後に信忠公を配祀し、
中腹の地から現在の山頂に社殿が移されました。

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建勲神社は、それ以後、
「けんくんさん」として親しまれ、大願成就、開運、難関突破、
災難除けの神として崇拝されています。

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ところで、船岡山はもともとパワースポットであったようです。
平安遷都の際は、風水思想による立地条件に合った土地が探されましたが、
船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成されました。
すなわち、船岡山からの直線の延長線上に大極殿、さらにメインストリートとして
朱雀大路が造られたと云われています。

境内には、船岡山の地の神をまつる船岡妙見社があります。
妙見とは、北極星の意味で玄武の象徴と云われます。

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船岡山は京からみて、北極星の方向に当たり、秀吉はそこに信長を祀ろうとした
―なんだか、家康を祀った日光東照宮が江戸から見て北極星の方向であった―
という話と酷似していて 興味深いですね。

秀吉の信長の後継者として 天下を取ろうとする意気込みが
見て取れるような気がするのです。






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応援よろしくお願いします 「指ではじくだけで肩の痛みが治る!-江戸の秘術から生まれた凄ワザ」 江戸時代の按摩術が、現代人の症状によく効く事を紹介した本です。
指ではじくだけで肩の痛みが治る!―江戸の秘術から生まれた凄ワザ

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岐阜城の麓にあった 信長の館 [戦国]

現在、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にて、織田信長時代の岐阜の繁栄が
描かれ、エンディングにて「岐阜城 織田信長居館跡」が紹介されていました。

織田信長は、天下統一への拠点として、交通の要所である岐阜に移りました。

永禄十年(1567)に、ここ 井の口村に移った信長公は、山麓の館を大きく改修し、
自ら 岐阜と名付けたこの町を、 足かけ10年にわたり 本拠地としました。

岐阜城は、金華山の山全体が天然の要害として機能しており、
軍事的な施設である山上の城郭部分と 山麓の居館部分に分かれ、
居館において日頃の生活や 政治が行なわれていた訳です。


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信長公に面会する為に、多くの人々が岐阜を訪れました。
その時に対面するのは この山麓の館になります。

公家や文化人、他大名の使者など特別な客人は、信長自ら おもてなしをした
との記録が残っています。

おもてなしは、山麓の館にて、お茶、能、踊り、食事などの接待、参上の天守閣にて
岐阜城下の眺望を楽しみ、夜は長良川の鵜飼いで接待をする
というものだったようです。

おもてなしを受けたポルトガルの宣教師 ルイス・フロイスは、その館を
「清々しさ・美しさ・豪華さ・清潔さにおいて、私はこの宮殿に並ぶものを
他に見たことがありません」
と絶賛しております。

そのフロイスの記述によると

柴田勝家殿をはじめとする10人位の家来の案内で進むと、
宮殿の外側には見事な石垣があり、まもなく、広場があり、入り口には
上演や祝祭に使う劇場があり・・・
長い階段を上ると、大広間があり、クレタの迷宮の様で、広間の最初の廊下は
15か20の美しい屏風で飾られた 座敷に至り・・・廊下の外側に美しい庭があります。

2階には、大部屋と奥方と その侍女たちの部屋があり、3階は、山側へと通路で繋がり、
チャ と称する粉末で できたものを呑む 立派で美しい 茶の座敷があり・・・
3階と4回の見晴らし台からは町の全体が望めます。




かつてから、千畳敷とよばれる場所には、信長の居館があったと伝わっていた所です。
そこには、幾つもの巨石がみられ、その権威を見せる為のものでは?と言われています。

この居館部分の発掘調査が、現在進められており、徐々に整備がされてきています。

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これまでの発掘調査では、巨石列や石垣、建物の壁土や礎石、庭園の後も数カ所
見つかっています。

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屋敷からはこの様な 滝やせせらぎ が眺められたと思われます。

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槻谷(けやきだに)の最奥で見つかった池と円形の石組が一体となった園池遺構は、
銀閣寺の池と酷似している事が解ってきているそうです。

この館跡を散策すると、この辺りは軍事的色彩は感じられず、
信長の邸宅と、特別な人をもてなす 迎賓館的な場所であった事を
感じられます。

その規模と豪華さは 桁違いの物であった事が、この遺構から知る事が出来、
往時の繁栄をしのびながら 散策を楽しむ事が出来ます。






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道三ゆかりの常在寺と 半兵衛ゆかりの妙照寺  [戦国]

金華山の山麓には、戦国武将ゆかりの寺院が点在しています。

梶川町の常在寺は、斉藤道三の菩提寺であり、
斉藤道三・義龍父子の肖像画を収蔵する寺として知られています。

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斎藤妙椿公が 京都の 日蓮宗本山妙覚寺から日範上人を迎えて開山し、
第4世日運上人と道三の父・長井新左衛門尉が 少年時代に
妙覚寺で机を並べたよしみから、常在寺を訪れ、日運上人の取り計らいにより 
斉藤家への出入りが可能となり、斎藤姓を名乗り
戦国武将としての活躍が始まった訳です。

道三は、父の築いた地位を基盤に、
守護大名 土岐頼芸を追放して美濃国主となり
この寺に寺領を与え保護し発展させました。

今回は、道三まつりの無料公開にて、
普段は 歴史博物館に収蔵されている
帰蝶(濃姫)寄進の道三公画像と 
龍興公寄進の義龍公画像を  拝観できました。

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前回は、まだ私が小学校の頃、
NHK大河ドラマ 【国盗り物語】で、斉藤道三が主人公として
取り上げられて脚光を浴びていた時に訪れました。

道三公画像の 本物の横には、製作された時の 色使いを再現した
模写が展示され、当時は 袴は鮮やかな緑、裃は紺色であった
ことが解り、興味深いです。

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道三に関わる史跡としては、長良川の北に道三塚があり、
天保年間に日椿上人により建てられた碑が建っています。
道三は、長良川合戦にて 息子の義龍と戦い、敗走して城田寺に
逃れようとする所を討ち取られと云われています。

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常在寺の向かいには、同じく日蓮宗の妙照寺があります。

この寺の敷地は、豊臣秀吉の家臣 竹中半兵衛の屋敷があった所で、
岐阜城主の織田秀信から、半兵衛の屋敷跡を寄進され、
別の場所からこの地に移されたそうです。
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境内奥にある「三光稲荷社」は、竹中半兵衛が守護神として
屋敷内に祀り、信仰したと伝えられています。

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また、この寺の池は、信長が岐阜町の建設の際に、
土塁用の土を掘り取った跡だとされています。

この辺りは、何気ない所にも 戦国時代の名残があるのです。



最近、岐阜で評判の 
お蕎麦屋さんの、 そば切り 【すず野】さん
市街地から 常在寺、岐阜公園エリアに 御鮨街道で繋がる 
古い町並みの中にあるお店。
パワースポット伊奈波神社にもほど近い立地です。

もともとは呉服商だった町屋を使った趣のある店構えです。
以前は、漬物懐石 こまやさんでしたが、岐阜公園に移られた後、
そば切りのお店になりました。

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季節のおすすめ4メニューの 
アボカドと海老のかきあげとざる蕎麦 と 
白海老とこしあぶらのかき揚げとざる蕎麦 を頼みました。 
この日のお勧めの 山菜の御浸し の小鉢一品付。
蕎麦は、かけ、ぶっかけ、ザルから選べ、
蕎麦つゆも 濃いめ と薄め から選べます。
最初は、御塩でいただける様に、小皿に塩も付いております。

細めですが、こしと香りを楽しめる蕎麦で、アボカドとえびのてんぷらは、
揚げたアボカドの お芋の様? な食感と味が絶品です。

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蕎麦湯は、とろりとした濃厚な感じが 好きです。
最後は、和風 きなこのパンナコッタ のデザートと そば茶 で締めます。

落ち着いた店内と、感じの良い接客で、美味しいお蕎麦が楽しめるお店です。

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2020年 NHK大河ドラマ 【麒麟がくる】にも関係します
岐阜が舞台となる回が、待ち遠しいです





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石田三成 出生の地 [戦国]

石田三成は、石田正継の三男として石田村に生まれ、幼名を佐吉と言いました。
佐吉少年は、横山の観音寺で学問修行中に、この地に立ち寄った 
長浜城主 羽柴秀吉公と出会い、
〝三献の茶〟の縁で 秀吉公に使える様になったと言われます。

長浜市石田町には、三成公の屋敷跡、産湯の井戸が残り、
氏神の八幡神社の裏手 石田神社に供養塔が祀られ、
三成自筆の和歌や辞世の歌の歌碑が建てられています。

石田 には、バスで行くには 長浜から入る他、本数は少ないものの
湖国バスが JR東海道本線 近江長岡駅から長浜行き
が あった為、こちらより 入りました。
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三成公が産湯をつかったと言われる井戸が、路地裏に残ります。

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バス停から少し歩くと、三成屋敷跡に到着です。

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屋敷の面積は150㌃で、周囲は堀に囲まれ、堀端と呼ばれる屋敷堀があります。

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敷地内には、石田会館が建てられ、
三成公の頭蓋骨の写真・絵巻・文書が展示されていますが、
会館の方によると、合戦の敗者ゆえに、徳川の世では
名前は抹殺されやゆかりの品は破棄された為、
殆んど残されていないそうです。

合戦後の石田村では、江戸末期まで、毎年の宗門改めの際に
 「石田残党これなく候」と、井伊家に誓約させられており、
井伊家も、佐和山から離れたところに城を築き、
城下から徹底的に 石田色を消していた様です。

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石田神社内にある 三成 辞世の歌碑
『筑摩江や 芦間にともすかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

三成の〝関ヶ原の戦い〟の敗因は、よく 
横柄な態度と人の失敗・行動を叱責する等、
三成の人物、性格に問題があり、人心掌握ができず、
武断派をはじめとする 敵が多かった事が指摘されているが、
反面、直江・大谷・平塚・佐竹をはじめとする 親三成の大名も多く、
その絆は強固だった事から考え、太閤殿下の政権の維持・安定の為に働き、
晩年の強引な朝鮮出兵、奇行が目だった秀吉の補佐をし、
その行いの責任を被った事による 誤解がマイナスとなった様に思われます。

諸大名に裏切り工作を仕掛けて 関ヶ原の戦いに勝利し、
秀頼公を頼むと故秀吉公と交わした約束を反故にして、
様々な老獪な策を用い 天下を取った家康に比べ、
三成は、不器用であるが私欲を捨て 
豊臣の恩に真直ぐで ぶれる事が無かった事に 潔さを感じ、
近年 人気が出ている様です。

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全国の三成公敬慕者の浄財で 390回忌に建立された三成像。

大徳寺三玄院に葬られている遺骸と、青森 杉山家に伝わる肖像画を参考にして、
高岡市の彫塑家 喜多敏勝氏が製作したものだそうです。







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尾張四観音 龍泉寺 [戦国]

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名古屋市守山区にある龍泉寺は、最澄開基といわれる
天台宗の寺院であるが、要害の地であると共に、
濃尾平野を一望できる地理ゆえに、
桶狭間の戦いでは、清州城の北東の防衛の拠点となり、
徳川家康と羽柴秀吉が戦った『小牧長久手の戦い』では、
秀吉は小幡城の家康を討つ為に、この地に陣を張った。
しかし、羽柴軍敗北による退却時に火を放たれた為に、
多くの建物は消失している。




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この寺は、歴史上、『龍泉寺城』として、軍事拠点となり、
周囲に堀の後も残されている。
境内の裏に、日本庭園と共に宝物館を兼ねた模擬天守が建てられ、
この寺が、戦国時代に歴史を刻んだことを認識させられる。




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江戸時代には、名古屋城を鎮護する尾張四観音の一つとされて、
信仰を集めました




[バス]龍泉寺までは、JR大曽根駅より、
ゆとりーとラインといわれるガイドウェイバス で行ったのですが、
小幡緑地まで、高架式の軌道を走り、そこから先は普通のバスに
なったのが面白く、意外に楽しかったです。









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大和郡山城 [戦国]

筒井順慶が 信長より 大和20万石を与えられたのを機に、
筒井城から郡山城に移り、本格的な城郭の修築に着手。
二代目 定次 の時に、伊賀上野に転封となり、
豊臣秀長が城の修築と城下町の整備を進める。
秀長の死後に、増田長盛が入城し、城を完成させるも、
五奉行の一人として関ヶ原の戦いでは
西軍に組みして、領地を没収され高野山追放となった。


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江戸に入り、水野・松平・本多と城主が替わり、
甲府から柳沢吉里が入封してからは、
明治維新まで柳沢氏がこの地を治めている。

城跡には、梅林門、月見櫓、多聞櫓などが復元され、
石垣と共に戦国の世の姿を伝えている。
桜の名所としても有名で、写真は桜まつりに訪れた時のものです。

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犬山城と 犬山城下町 [戦国]

信長の叔父、織田信康により建てられ、
戦国の攻防の要所としての役割を担いました。
とくに、豊臣秀吉が小牧長久手の戦いにおいて、
犬山城にて12万の大軍を率いて
小牧山城の家康と対峙したのが有名です。



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国宝に指定されている四つの城のひとつですが、
その天守閣は、日本最古の木造建築で
天守閣の最上階からの眺めはもちろん、
床、柱、急な階段などにもその風格が漂います。




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犬山は名城と共に、商家・古民家が軒を連ねる城下町が
保存されているのも見どころの一つです。
写真は呉服商を営んでいた 『旧磯部邸』で、「むくり屋根」
という緩やかに膨らんだ屋根が特徴です。

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『茶寮 椿』さんでは、〝桃酔菓〟が、夏限定で食べられます。
冷たく美味しいうえに、見た目にも とても華やかなお菓子で、
お勧めです!

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〝貴婦人〟 草餅入り白小豆のぜんざい も オシャレでお勧めです
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〝白玉あんみつ〟
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